ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…→「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)
さて、もちろん小説のなかの話ではあるが、ファルス(ラカン)はヴェルト(バルト)に何を言ったんだろう、どんな気のふれたことを。
まずはバルトと母との関係のことではないだろうか、ファルスが、それを言わずにすますわけがない。
≪女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ≫(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63]ーー「子どもを誘惑する母(フロイト)」 )
私にとって家族は、ずっと前から、母と、血を分けた一人の弟だけだった。後にも先にもそれだけである(ただ、祖父母の思い出だけは別であるが)。家族集団を構成するためにどうしても必要とされる単位、《いとこ》は一人もいなかった。それに、家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているかのように扱う、あの科学的態度は、どうにも我慢がならなかった。つまり家族は、直接的な帰属集団としてコード化されるか、または、葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちには、《互いに愛し合う》家族もいるということが想像できないかのようである。
そしてまた私は、私の家族を「家族」一般に還元することを欲しないのと同じく、私の母を「母」一般に還元することも欲しない。ある種の一般的研究を読むと、それが私の状況に納得のいく形で適用できるということは私にもわかった。フロイト(『人間モーゼと一神教』)に註釈をほどこしつつ、J・J・グノーが説明するところによれば、ユダヤ教は、聖母崇拝の危険を避けるために偶像を排除したが、キリスト教は、母なる女性の表象を許すことによって「おきて」の厳しさを乗り越え、「想像的なもの」を受け入れたという。私は、偶像をもたず聖母を崇拝しない宗教(新教)に属しているが、しかしおそらく、文化的にはカトリック芸術によって培われてきたので、「温室の写真」を見て、「偶像」に、「想像的なもの」に帰依した、ということになるのである。それゆえ私は、自分に普遍性があることは理解できたのだが、しかし、理解したとはいいながら、どうしても割り切れない気持が残った。「母」一般のうちには、輝かしい、還元しえない一個の核、つまり、私の母が存在していたのである。
私は生涯母と一緒に暮してきたので、悲しみもまたひとしお深いのだ、と人は必ず思いたがる。しかし私の悲しみは、母があのような人であったことから来ているのである。母があのような人であったからこそ、私は母と一緒に暮してきたのである。母は「善」としての「母」であるうえに、さらに一個の人間としての魅力をそなえていた。プルーストの小説の「語り手」が祖母の死について言ったように、私もまたこう言うことができた。《私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまで大事にしたかった》と。なぜなら、その独自性は、母のうちにある絶対に還元不可能なものの反映だったからである。そしてそれが、まさに還元不可能であるゆえに、一挙に、永遠に失われてしまったのだ。
喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただそれだけにすぎないからである(私は単に死別したことを悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。というのも、私が失ったものは、一個の「形象」(「母」なるもの)ではなく、一個の人間だからである。いや、一個の人間ではなく、一個の特質(一個の魂)だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである。私は「母」なしでも生きてゆくことができた(われわれはみな、遅かれ早かれそのようにしている)。しかし私に残された人生は、確実に、最後まで、形容しがたい(特質のない)ものとなることであろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳 PP.90-92)
…………
モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。
フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。
奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。
ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。
ラカンの最初のエディプス理論とはこうだ。母は子どもを、ほとんど致死的な deadly 仕方で、享楽する。唯一、父の介入を通してのみ、主体は、母の潜在する致死的 lethal 享楽から救われる。同じ理屈が、三つの宗教書のなかに…見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。
これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ。
事実、享楽と他者とのあいだのこの発達的なつながりは、主体にとって、享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…
フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…(ヴェルハーゲ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDFーーエディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》)
…………
バルトの母は長寿であり84歳で亡くなっている(バルト62歳)。
年齢というのは、年代的与件、年月の連鎖であるとしても、それはほんの部分的でしかありません。途中、ところどころに、仕切りがあり、水面の高低差があり、揺れがあります。年齢は漸進的なものではありません。突然変異するものです。(……)私の年齢が潜め、また、動因しようとしている現実的な力はどういうものか。これが、最近、突然生じた問いです。そして、この問いが、今、この時点を《私の人生の道の半ば》としたように思えるのです。(……)
プルーストにとって、《人生の半ば》は、もちろん、母親の死でした(1905年)。生活の突然変異、新しい作品の開始が数年後のことであったとしてもです。つらい悲しみ、唯一の、何物にも還元できないような悲しみは、私にとって、プルーストの語っていた《個人的なものの頂点》をなし得るように思えます。遅まきながら、この悲しみは、私にとっても、私に人生の半ばとなるでしょう。というのは、《人生の半ば》とは、おそらく、死は現実的なものであって、もはや単に恐るべきものではないということを発見する瞬間以外のものではあり得ないからです。
このように道を辿って来ると、突然、次のような明白な事実が現われます。一方では、私にはもういくつもの人生を試みる時間がないということです。(ロラン・バルト《長い間、私は早くから床についた》)
◆『喪の日記』 バルト、加藤弘一
「喪の日記」カード群は1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれた。(……)
母の死の翌日の日付のカードにはこうある。
新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?
「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」
…………
母の病気のあいだ、私は母を看病し、紅茶茶碗よりも飲みやすいので母の気に入っていたお椀を手にもって、お茶を飲ませてやった。母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。(……)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。(……)私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生み出したのだ。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
ーー≪あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた≫[Elle, si forte, qui était ma Loi intérieure, je la vivais pour finir comme mon enfant féminin]
バルトのいう母の「おきて」とは具体的にはなんだったのだろう・・・
……ここではごく一般的な「母の法」を示しておく。
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。
事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。
そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel 、‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
もちろん、ここで古典的なフロイトを引用することもできる。バルトがきっとくりかえし読んだだろうフロイトの「同性愛」をめぐる叙述を。
……われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しい性愛的な結びつきがあったのであるーー母親自身の過度の優しさによって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中で父親があまり出てこないということによって。サードガーの主張するところでは、彼の扱った同性愛患者たちの母親は、しばしば男まさりの女であった。つまり精力的な性格の女たちで、亭主を尻に敷いてしまうような女たちだったという。私も往々同様のことを目撃した。それよりも強い印象をうけたのは、父親が最初からいなかったとか、早くいなくなってしまうかして、その結果、男の子がもっぱら母親の影響ばかりを受けたような場合には、ことさらその印象が強かった。もし力強い父親がいたならば、息子は異性選択において正しい決定をしていただろうと思われるのである。
さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。母親への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥るのである。子供は自分自身を母の位置に置き、母と一体化し、彼自身を手本にして、その手本に似た者から新しい愛の対照を選ぶことによって、彼は母親への愛を抑圧する。子供はそれほど同性愛的になってしまったわけである。いや実際には、いまや青年たる彼が愛している少年たちとは実は、かつて子供の彼を母が愛したごときに、いま彼がそんなふうに愛している、子供としての彼自身の代償であり更新に他ならないのであるから、彼はふたたび自己愛に落ちこんだというべきであろう。それをわれわれは、彼は愛の対象をナルシシズムの途上で見出すというように表現するのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスと呼んでいるからである。
心理学的にさらに究明してゆくと、このような途をたどって同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の映像をいつまでも持ちつづけているという主張が是認される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、かくしてそれ以後つねに母に忠実な者となるのである。彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はこうすることによって、彼をその性的義務にそむかせるかもしれぬ他の女たちから逃げ廻っているのである。われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は普通人と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に移し、かくしてたえず、彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』)
ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)