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2016年6月2日木曜日

処女らの笑ひのにほひ

あをによし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛なり 〔巻三・三二八〕 小野老


いやあ、実に見事な歌だ。このところ万葉集を読んでいるのだが、ようやくこの歌に行き当たった。この誰でも知っているだろう歌を、わたくしはすっかり失念していた。

この音調、この恩寵。この天真、この爛漫、この喜悦。この歌はわたくしには完全なものと思われる。原文は「青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」。どの漢字も美しい。

「あをによし」を枕元言葉として読む必要はまったくない。「青丹吉」。世界は美しいのだ。雨季に入って、半年ほどの乾季のあいだに埃にまみれた葉叢が隅々まで洗われ、青丹色に光り輝く。白い花が香り高く匂ひ立つ。「寧楽乃京」もなんという美しい字面だろう。この寧夏寧日の寧静寧謐に「咲花乃 薫如 今盛有」。

短かかつた耀かしい日のことを寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ(伊東静雄)

なでしこが花見る毎に処女らが笑ひのにほひ思ほゆるかも  大伴家持


波紋のように空に散る笑いの泡立ち
(……)
芝生の上の木漏れ日であり
木漏れ日のおどるおまえの髪の段丘である
ぼくら  (大岡信)

《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(ニーチェ)

ああ、あれら万葉人たち!

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352)

われを愛する者は、わが言葉を守らん[Wer mich liebet, der wird mein Wort halten]

◆J.S.Bach: Cantata BWV 59