ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
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フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。
そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)
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さて前回記した「快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽」を基盤としつつも、人は、解剖学的「女性」の享楽を考えなければならない。泥まんじゅうは、凡庸なフェミニストたちにまかせておけばよいのである。以下はその手始めの文献である。
女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。
元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…
自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。
女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。
…受胎は、女のセクシャリティにとって決定的特徴を示している。妊娠した女はみな、統御不能の冥界の力に支配された身体と自己を持っている。
望まれた受胎において、冥界の力は幸せな捧げ物である。だがレイプあるいは不慮による望まれない受胎においては、冥界の力は恐怖である。このような不幸な女たちは、自然という暗黒の奈落をじかに覗き込む。胎児は良性腫瘍である。生きるために盗む吸血鬼である。
…かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。
ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。
女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?
私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。
これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。(⋯⋯)
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……
西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
(ゴダール、探偵) |
後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。
われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité (最も親しい外部)の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(⋯⋯)
偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再結合する或る直観的真理を包含している。
ヒステリーについての最初の理論は、1937年にKahun で発見された4000年ほど前のパピルス[Papyrus Ebers]に記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部に独立した自動性器官だと考えられていた。
ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。
この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。この異様な考え方は、しかしながら、たいていの奇妙な理論と同様に、ある真理の種を含有している。
第一にヒステリーは、おおいに性的問題だと考えらてれる。第二に、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のような器官だという想定を以て、この理論は事実上、人間内部の分裂という考え方を示しており、我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。
神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っている。「主体は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)と。(Frédéric Declercq, LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE, 2004年)
ーー上の文にある「異者」とは、ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23, 1976)であり、フロイト概念「異物 Fremdkörper」であるのは既に何度もくり返した(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。
ここでは簡略にラカンのボロメオの環を使ったフロイト概念版を掲げておくのみにする。
どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)
ーーこの記事の核はこの文である。ミレールに「母女 Mèrefemme」という概念があるが、漢字で書けば「姆」。女はエライのである。姆、すなわち神である。
女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838年)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
※付記
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、これが「最後の審判 le Jugement Dernier」の作用である。この意味は、われわれが享楽しえない何ものかがある il y a quelque chose dont nous ne pouvons jouir.ということである。それを「神の享楽 la jouissance de Dieu」と呼ぼう、「性的享楽 jouissance sexuelle」の意味を含めて。(ラカン、S23、13 Janvier 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
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享楽自体、穴[Ⱥ] を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ)]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
※参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽