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2018年9月16日日曜日

不気味なもの界

ああ日本言論社交界のドゥルーズ派をバカにしたけどさ、「真のアンチ・オイディプスは、オイディプス自身である」で記したヤツは「小者」だからしょうがないよ。学者商売の邪魔をしたくないからあえて名前はださなかっただけさ。

若手スター系のドゥルーズ学者、たとえばチバとかコクブンとかもその書は読んだことがないからよく知らないさ。けれどもネット上でときたまチラミするとトンデモだな。

たとえば下のチバ文に「通常vs.ファルスの構図」とあるが、まったくイミフだな。想像的ファルスと象徴的ファルスの区別ができてないんじゃないだろうか。性別化の式のファルスは象徴的ファルスだ。「通常」とは象徴的ファルスΦ があってこその通常であり、対立として記述できるわけがない。

通常vs.ファルスの構図は、ドイツ語でいえば「通常=馴染み=我が家的である=ハイムリッヒ(heimlich)」なものと、「不気味なもの=我が家的でない=ウンハイムリッヒ(unheimlich)」なものの対立として記述できます。ここで私が第3の道として提起したいのは、ファルス的=不気味ではなく、かつ通常でもないもの。それは、通常のものと極薄の違いしかもたない、「不気味でない(ウン・ウンハイムリッヒ[un-unheimlich])」ものです。……

「例外vs.通常」という構図から外れること。それは後期ラカンでいうところの、男性の式から外れて、女性の式へと向かうことです。女性の式においては、単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない。ゆえに女性の式については「すべてではない(not-all)」という独特の概念をラカンは提示しています。

不気味でないものは、「すべてではないもの」である。 …(千葉雅也「「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」10plus1、2016/12

で、《不気味でないものは、「すべてではないもの」である》なんてね、これ、一瞬で抹殺すべき言明だな。

そもそも象徴秩序(言語秩序)とは、ファルス秩序、欠如のシニフィアンΦがあってこその秩序だよ、これが「通常」の秩序だ。

それがラカンが次のように言っている第一の意味合いだ。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。

Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ま、彼は自ら「広告屋の息子」だと宣言しているように逆張りでの受け狙いなんだろうがね。あれを一瞬で罵倒できないのは、日本言論社交界のきわめて悲しい知的退行だよ。

⋯⋯⋯⋯

ラカンは性別化の式を次のように語っている。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …«斜線を引かれた女 Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化 dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。… (ラカン、S20, 13 Mars 1973)

このファルス秩序の二重化、そしてファルス秩序の彼岸にあるS(Ⱥ)こそが「非全体 pastout(すべてではない)」にかかわるシニフィアンである。



ジジェクによる簡潔な注釈を掲げよう。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pastout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

そしてジジェクは次のように図式化している。上段が男性の論理(ファルスの論理)、下段が女性の論理(S(Ⱥ)の論理)だ。




「S1=例外」はファルスΦに相当する。「対象a=非全体」は、穴Ⱥあるいは穴のシニフィアンS(Ⱥ)に相当する(S(Ⱥ)が(a)に相当するだろうことは、「「欲望は大他者の欲望」の彼岸」の後半を見よ)。


ジジェクによる対象aの両義性を示しつつの表現なら次の通り。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

対象aの一側面が「穴」であるのは、ラカン自身も明瞭に示している。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

繰り返せば S2 という通常の知は、Φの例外があってこその通常であり、「通常vs.ファルスの構図」などという対立なんかされるものではないし、象徴的ファルスΦが不気味なものの審級にある筈はまったくない。チバの発言は完全な誤謬。

以上に示した通りだが、どんなに逆張りしても、象徴的ファルスΦが不気味なものと直接的な関係があるわけがない。

ファルスは繋辞である le phallus c'est une copule。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)

⋯⋯⋯⋯

現在、性別化の式のデフレが主流ラカン派では主張されているから、ラカン派内では混乱があることはあるのだけれど、主流ラカン派の主張を受け入れるなら、S(Ⱥ)こそさらにいっそう「不気味なもの」であり、Φは「不気味でないもの」だな。S(Ⱥ)については「S(Ⱥ)と「S2なきS1」」を見よ。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なき sans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(JACQUES-ALAIN MILLER、2012、pdf

「法なき現実界 réel sans loi」とはラカン自身の言葉だが、これこそ「欲動の現実界 le réel pulsionnel」としての不気味なものの審級にある。そもそもラカンにとって現実界とはトラウマ界であり(参照)、言ってしまえば「不気味なもの界」だ。

フロイトは不気味なものについてこう言っている。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

ラカンはこう言っている。

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、1976、 AE573)

欠如の欠如とは穴のことである。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)

穴、すなわち象徴界的欠如ではなく現実界的穴であり、欲動にかかわる。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

さらにラカンの L'ÉTOURDIT(14 juillet 72、オートルエクリ所収)には、pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない)という表現が現われている。


フロイトにおいては、快原理内部にあるものとは、語表象 Wortvorstellungen に拘束された備給(リビドー)であり、他方、快原理の彼岸にあるものとは語表象に拘束されないリビドーである。

欲動の蠢き Triebregungen は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動の蠢きが一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

したがって不気味なもの、その反復強迫は語表象(シニフィアン)に拘束されないエネルギーの作用である。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は、快原理の彼岸、つまりファルス享楽の彼岸にあると。不気味なものは、他の享楽(女性の享楽)に結びつけられねばならない。シニフィアン外部の、脅迫的な現実界のなかに。⋯⋯⋯反復強迫の作用とは、最初からシニフィアンが欠如している場でこの現実界を拘束しようとする作用、つまり現実界をシニフィアンに結びつけようとする(不可能な)作用である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

ここまでの語彙群を抽出し図示すれば次のようになる。


※欠如と穴の相違は、「欠如と穴(簡略版)」を見よ


いままでに何度か掲げている基本図も再掲しておこう。



上図の上部はラカンの発言からが整理したもの。

非全体(すべてではない pas toute)の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

※標準的には大他者の享楽と訳される jouissance de l'Autreを「他の享楽」とした理由については、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

下部は、ジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)より。


ラカンは、ファルスの彼岸にある「身体の享楽」と言っているように、上図の右側は「快原理の彼岸」の症状、左側は「快原理内部の症状」である。ラカン語彙なら現実界/象徴界。

くりかえせば快原理の彼岸にあるものが反復強迫としての不気味なものにかかわる。それはフロイトの定義上では、必ずそうなる。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

ラカン的には現実界の症状の反復強迫が不気味なものだ。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974ーーー「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ

以上。