このブログを検索

2018年9月17日月曜日

欠如の欠如という不気味な刻限

以下、数年前訳した粗訳だが、わずかばかりの訳語変更をするのみで、ロレンゾ・チーサによるによる「根本幻想とその彼岸」の注釈を掲げる(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)。

1976年生まれの彼は、「若きラカニアンの新しい世代のリーダー the leader of a new generation of ‘young Lacanians」(wiki)ともされる人物で、アガンペンの英訳者としても名高い。

31歳のときに(2007年)出版された『主体性と他者性 Subjectivity and Othernes』は、韓国語(2012)、中国語 (2017)にも翻訳されている。ジジェクは、まだロレンゾが20代のときに絶賛して紹介している。


以下に掲げる箇所に《欠如のシニフィアン S(Ⱥ)》との記述があり、そこだけはいくらか不満である(現在の主流ラカン派におけるように、穴のシニフィアンS(Ⱥ)とすべきである)。《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)のシニフィアンと。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

もっともミレール自身、ときに欠如という語を使っているので大きく拘る必要はない。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


なにはともあれ、わたくしの理解の範囲では、そして知りうる限りでの、最もすぐれて精緻な根本幻想にかかわる対象a とȺ のロレンゾによる記述である。

ーーこの文は、五種類の対象aについての記述の後に引き続いてある(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。



【主体は大他者の欲望の対象aとは何?】
主体は大他者の欲望の対象a である、そしてこの条件は究極的には主体自身の幻想的欲望の核と見なされるべきだとラカンが言うとき、その正確な意味は何なのだろうか?

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。


【分身と対象a】
(……)我々は既に吟味した。子どもが大他者が斜線を引かれていることȺ を悟るずっと前に、彼は欲求不満の象徴的弁証法のなかに入り込む仕方を。すなわち始まりには、原象徴化の窓がある。それはエディプス・コンプレックスの最初の段階である。次にエディプスコンプレックスの第二段階の初めに、窓は深淵を枠組みしていることに子どもは気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、「分身」としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くことを暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は「欠如していないイマージュnonlacking image」として「見られる(観察される)」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって「分身」とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。


【ファルス化された対象aの機能】
これらの事例が示しているのは、喪われた部分対象a ・まずなによりもファルス化された眼差しは、いかに大他者のなかの空虚ーーȺとしての純粋欲望ーーを覆い隠すものかであり、それがいかに無意識の根本幻想のなかで「分身」として現れるかということである。幻想のなかで、私は私たち自身を大他者のファルス化された欲望として見る。私は私自身を大他者のなかに見る、彼のリアルな欲望のなかに「崩れ落ちる」ことのないように。

したがって、もはや大他者の欲望としての主体の欲望について語るのは十分でない。我々がここでより明確に次のことを取り扱っている限り。《大他者のなかの欲望…私の欲望は空洞のなかに入り込む、私であるところの対象の形式(偽装)のなかにある空洞に。désir dans l'Autre…mon désir entre dans l'antre où il est attendu de toute éternité sous la forme de l'objet que je suis》(S.10)

ゆえに最も純粋には、私の幻想的欲望(防衛としての欲望)の対象は「私が私自身、対象である」という事態のなかの大他者の欲望である。これが説明するのは、なぜ幻想はーーシンプルに二次的同一化と個体化をもたらすものにも拘わらずーー本質的には《根源的脱主体化 désubjectivation en tout cas radicale》を基盤とした構造であるかということである。それは《主体が観客、単純には目の状態へと還元される le sujet n'est plus là que comme une sorte de spectateur réduit à l'état de spectateur, ou simplement d'œil》(S.4)ことによる脱主体化である。

この引用を解釈するとき、(観客の)個人化された行為としての視覚のようなものと我々はうっかりと考えてしまう危険を避けねばならない。ちょうど今、上に事例にて叙述したように、幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」。

この文脈においてのみ、我々はセミネールX にて提供された幻想の謎めいた定義を理解しうる、《私は言おう、a という$ の欲望 ・幻想の式 $ ◊ a は、この展望のなかで次のように翻訳しうる je dirai que $ désir de (a), $ ◊ a formule du fantasme, ça peut se traduire, dans cette perspective 》、すなわち《大他者は姿を消してゆく、気絶する、私がそうであるところの対象の前で。私が己自身を見ることから差し引かれものの前で。 l'Autre s'évanouisse, se pâme, dirais-je, devant cet objet que je suis, déduction faite de ce que je me vois 》(S.10)


【リアルな対象aとは?】 
疑いもなく、幻想の視覚的な相互受動性において姿を消してゆくのは、リアルな欠如としての大他者の欲望・リアルな対象a(= Ⱥ)である。したがってラカンは次のように言うことができる、(神経症的)幻想のなかの対象a の想像化は、主体を不安から防御する、《[想像的] 対象a がまがいもの postiche である限りにおいて》。

しかしながら同時にーー私は既に凍りついた恐怖映画の例にて描写したがーー「枠組みを嵌める framing」不安、《寄る辺なさHilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》であるところのものにおいて、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を効力化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的 erogenen マゾヒズム、ラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。


【三つの不安】
したがって我々は、不安の三つの論理的時間をーー対象a と根本幻想に相対してーー区別すべきである。

① エディプス・コンプレックスの第二段階の開始における、前幻想的な「窓から首を出すこと leaning out of the window 」、リアルな対象a としての母なる大他者の欲望とのカオス的遭遇ーーそれは根本幻想の形成になかでそのカオスの鎮静後にのみ、それ自体として感知されるリアルな対象a(= Ⱥ)である。

ここにある不安は、ラカン曰く《何かの予兆 pressentiment de quelque chose》である。しかしまた全ての(象徴的)偽りの感情に先立つ《前感情« pré » du sentiment》・《おどろおどろしい確実性 affreuse certitude》(S.10)である。そしてそれに対する反応は、最初の疑念「母なる大他者は何を欲しているのか」を形成する。

この最初の意味で、《(構造化されていない)不安は鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》・Ⱥの原初的出現であり、それなしでは、リアルのなかのシニフィアンの現前・その機能・その登場・その徴は考えられもしない 《sans laquelle la présence du signifiant, son fonctionnement, son entrée, son sillon dans le réel est impensable.》(S.10)。

② 対象a の想像化による根本幻想の絵のなかの《不安の枠組み化 encadrement de l'angoisse》(S.10)。ここで敵対性 l'hostile は《飼い馴らされ、懐柔され、受け入れられる amadoué, apaisé, admis》。そして客 l'hôte になる。しかしながら、母なる大他者の欲望によって生み出された不安に枠を嵌めるために、主体は去勢されて大他者のなかの対象として現われなければならない。そして《これは堪え難いものである c'est là ce qui est intolérable 》。言い換えれば、この観点からは、幻想のなかで根本的に抑圧されるものは、主体の非自律性 la non-autonomie du sujet の顕現である。(……)

③ 厳密な意味での不安、それは、幻想のなかで不安に枠を嵌める責を負う欠如のシニフィアン S(Ⱥ)自体が喪われているときに起こる不安である。すなわち、(幻想の彼岸にある)大他者のリアルな欲望の過剰な近接性のせいで去勢 (−ϕ)が宙吊りにされたときに起こる。これは、自己意識のなかで《欠如自体が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)不気味な刻限 uncanny moment に他ならない。

《不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。》(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)

《欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。》(Lacan、1976、 AE573)




【欠如の欠如(欠如のポジ)という自己喪失】
疑いもなく、要求の通時的次元は、アガルマという換喩の空虚の場によって特徴づけられる。すなわち欠如は想像的自己意識のなかに現前している。しかしながらこれは、我々が通常この欠如のイマージュをもっていることを全く含意しない。

不安が出現するのは、まさに主体が「ポジティブな positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》--すなわち「窓」が、主体の鏡像的投影によって隠された空虚に向かって開かれたときであるーー、そしてアガルマ、鏡像の彼岸にある《我々がいる場の不在 l'absence où nous sommes》は、このようにしてその真の特性のなかで曝露される。すなわち、《どこか別の場にある現前 présence ailleurs》、《一ポンドの肉 la livre de chair》、私があるところの部分対象、私の幻想のなかの大他者の欲望にとっての部分対象(欠如のイマージュ)である。したがって不安とは、部分対象の束の間の浮上・主体自身の目にて主体を眼差す分身の出現に相当する。

言い換えれば不安とは、自己意識のなかでの私自身の幻想の「消滅の顕現 appearance of the disappearance 」であり、私の存在は大他者の幻想的対象以外の何ものでもないという堪え難さの顕現である。したがって、幻想の「意識的」顕現は、必然的に幻想の消滅と合致する。そしてそれに伴い自己意識の喪失をもたらす。

ここで強調すべき重要なことは、不安とは消滅のなかで経験された「感情 sentiment」ではないことだ。そうではなく、消滅する危険を上演する信号signalである。すなわち大他者に呑み込まれる危険の上演の信号。絶対的な脱主体化でありうるものの一時的な顕現……。

須臾の間、原初に部分対象a の喪失を引き起こした大他者Ⱥのリアルな欲望が部分対象とともに顕れる。須臾の間、対象a は同時に、欲望の対象であり欲望の原因である両方のものとして感知される。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)