ここでドゥルーズ好きには悪評が高いだろう、ジジェクの30年近く前の断片を掲げる。
人は、ラカンの「オイディプス主義」にたいするドゥルーズの反論の弱点を容易に位置づけることができる。ドゥルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプス自身 the most powerful anti-Oedipus is Oedipus itself だということである⋯⋯オイディプス的父は「父の名」として、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父は、「享楽の父」という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その権威を振るうことができる。(ジジェク『斜めから見る』1991)
唯一の真のアンチ・オイディプスは、オイディプス自身である。the only true anti-Oedipus is Oedipus itself. (ジジェク『為すところを知らざればなり』1991)
いまだもってドゥルーズ研究者たちはこのジジェクの指摘を「排除」してるのだろう、ラカン派における核心的洞察なのに。
自我は堪え難い表象をその情動とともに排除(拒絶 verwirft)し、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。
daß das Ich die unerträgliche Vorstellung mitsamt ihrem Affekt verwirft und sich so benimmt, als ob die Vorstellung nie an das Ich herangetreten wäre. (フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)
ジジェクの言っていることはこうだ。
オイディプス的父 象徴的法
ーーーーーーーー ーーーーーーー
享楽の父 超自我
上辺は下辺に支えられている。下辺が真のエディプスであり、それを飼い馴らそうとするのが上辺である。したがってエディプスの父は、真のアンチ・エディプスだということになるのである。
ところで享楽の父とは何か?
超自我の本質は何か? …
超自我は、まさに原父 Père originel から来る。…純粋享楽 jouissance pure、すなわち去勢されていない者 la non-castration から。そしてエディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、この父は実際に何を言うのか? 彼は言う、超自我が言うことを。すなわち「享楽せよ Jouis ! 」である。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
不可能な享楽を命令するのが超自我である。三年後にも同じように繰り返される。
享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
上にあるように享楽の父とは、去勢されていない猥褻な原父である。
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7、18 Novembre 1959)
この猥褻かつ無慈悲な形象を飼い馴らそうとするのが象徴的法としてのエディプスなのである。
象徴的法とは自我理想でありかつまた父の名である。
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, 2005)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School)
すなわち、
オイディプス的父 象徴的法 自我理想・父の名
ーーーーーーーー ーーーーーーー ------ーーー
享楽の父 超自我 超自我
結局、自我理想と超自我の区別がーーわたくしの知るかぎりでのーードゥルーズ研究者(フロイト・ラカンに触れつつの研究者)においていまだまったくなされていない(参照:自我理想と超自我の相違(基本版))。この区別が理解されていないなら、ジジェクのいうこと、つまりラカンの洞察はいつまでたってもチンプンカンでしかありえない。
享楽の父とは母なる超自我でもある(参照:母の法と父の法(父の諸名))。人間の乳児に端を発する発達段階の最初期には享楽の父など存在せず、母なる超自我だけがある。すなわち原大他者とは母もしくは母親役の人物である。
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)
S(Ⱥ) とあるが、これが反復強迫の《強制された運動の機械 machines à movement forcé (Thanatos)》(ドゥルーズ)となるように人を強迫する原母による原抑圧の刻印である。
前期ラカンは母なる超自我と父なる超自我を対比させているが、これは後の思考からいえば、超自我/自我理想の区別である。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)
この母なる超自我=享楽の父とは、ジジェクが次のように言っていることでもある。
女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(ジジェク,LESS THAN NOTHING 2012)
ミレールはこう言っている。
「父の名」は「母の欲望」(≒母なる超自我)の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(ミレール『大他者なき大他者』2013)
もちろん完全な飼い馴らしは不可能であり必ず残りもの(対象a)がある(参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象)。だが母なる超自我を飼い馴らす試みをするのがエディプスなのである。
これがジジェク曰くの《唯一の真のアンチ・オイディプスは、オイディプス自身である》の意味である。すなわち原超自我への対抗としてのオイディプス。
ところでドゥルーズはこう言っている。
マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。Dans le cas du masochisme, toute la loi est reportée sur la mère : la mère expulse le père de la sphère symbolique. (ドゥルーズ 『マゾッホとサド』)
ドゥルーズ にとってはこの「母の法」は肯定的に扱われる(すくなくともエディプスに対する宙吊りsuspensif機能として)。だが、母の法とは上に見た通りトンデモ法なのである。
「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata ⋯⋯⋯これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009)
ジジェクはこういった考え方を30年くり返している。
たとえば「公的自我理想の背後にある猥褻な超自我」。
たとえば「「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行」。
だがいまだラカンに熱心に触れようとしてうる研究者たちのあいだでさえもまったくといっていいほど理解されていない。ラカン派の核心のひとつであるのに。
ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。
フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ーー《「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯⋯だが母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(フロイト『モーセと一神教』)。
そしてフロイトの「偉大な母なる神 große Muttergottheit」を、ラカンは次のように変奏している。
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
ジジェクは『アンチ・オイディプス』をドゥルーズの最悪の書、退行の書と呼んでいる。だが、ドゥルーズにも二種類の審級(自我理想/超自我)をめぐる示唆はある。
幼年期の発端から、早くも問題になっていることは、オイディプスの仮面を貫いて現れるまったく別の企てであり、仮面のあらゆる裂目を通って流れ出るまったく別の流れであり、欲望的生産の冒険というまったく別の冒険である。ところで、ある意味でこのことに精神分析が気づいていなかったとはいえない。根本幻想、太古の遺伝の痕跡 、超自我の内発的源泉などに関する理論において、フロイトはいつも、実効的因子は現実の両親でもなければ、子供が想像する両親でさえもないことを明確にのべている。(『アンチオイディプス』文庫上、p179)
ーー「太古の遺伝の痕跡 traces d'une hérédité archaïque」とあるが、 フロイトにとって「太古」とは次の意味である。
「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(『終りある分析と終りなき分析』1937年)
エス、すなわち欲動とほぼ同一である。
エスEsの力能 Macht は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは固有の欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。エスには、己を生存させたり、不安の手段により危険から己を保護するような目的はない。それは自我の仕事である。…
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版、1940年)
ラカンはその最初期からこう記している、《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(ラカン、 LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
⋯⋯⋯⋯
※付記
ここでは超自我と父の名を対比させるために上のような記し方をしたが、かつての支配の論理に導かれやすいエディプスの復権を主張しているわけでは毛頭ない。
核心は、現在の猥褻な市場原理主義(資本の言説)の時代において、エディプス原理という歯止めを模索しなければならないということである。
それはラカンが次のように言っている内容の変奏としての「「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」」である。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2009)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール「大他者なき大他者」2013)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2016)
……最も純粋な超自我の審級。それは自己破壊の渦巻く循環のなかへ我々を操る猥褻な審級である。
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の原因・人間存在の非人間的な中核・ドイツ観念論者が「否定性」と呼んだもの・フロイトが「死の欲動」と呼んだものーーを混乱させることにある。超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012)
この反復強迫を強制する欲動の仮面としての猥褻な超自我の飼い馴らしが、ラカンのいう「父の名の使用」の意味である。
それは、社会病理学「治療施策」としては、柄谷のいう「帝国の原理」とほとんど等価である。
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)
帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
こういった考えはかつてから思考されている。たとえば、フランス革命直前の時期の「詩人」ノヴァーリス。
共和制なき王はない。そして王なき共和制はない。…daß kein König ohne Republik und keine Republik ohne König bestehn könne (ノヴァーリス『信仰と愛 Glauben und Liebe』1798年)