この憶測の由来はなによりもまず、次の文にある。
享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ、2009)
暗殺の森 Il Conformista (1970年) |
以下、その憶測のよってきたるところを、上に掲げた文もふくめてもうすこし長く引用記述する。
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《享楽は自らの身体から来る。とりわけ身体の境界領域(口、肛門、性器、目、耳、肌)から。
ラカンは既にセミネールXIにてこの話をしている。享楽に関する不安は、自らの身体の欲動のなすがままになることについての不安である。この不安に対する防衛が、母なる大他者に対する防衛に移行する事態は、社会構造内部の典型的発達過程にすべて関係している。……
この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…》(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
ベルトルッチ、ルナ Luna (1979年) |
《ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽(あるいは「享楽の侵入 irruption de la jouissance 」)の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…》(同、ポール・バーハウ、2009)
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...
フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・》(同、ポール・バーハウ、2009)
外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮 Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。
外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。
これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
ラストタンゴ・イン・パリ Last Tango in Paris (1972年) |
《享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。》(同、ポール・バーハウ、2009)
ラストエンペラー The Last Emperor (1987年) |
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※付記
たとえば父の詩の中に、母のことをうたったものがあって「きみは、庭の奥に咲き残った最後の白い薔薇だ、そこに蜜蜂が訪れて⋯⋯⋯」といった詩句を読んで私が庭の奥に行ってみると、そこに本当に薔薇の花が白く咲き残っていて、蜜蜂が舞っている、と、そんな世界の中に私は育ったのです。私が詩として読んでいたものと現実との間には、いつも対応関係があった。ごく自然にそうした対応があって、妙な修辞学的な装飾とか、ミスティフィケーションなどは何もなかった。
そこで、十四か五になったころ、私は、余儀なく詩人にならざるをえなくなっている状況に反発して、映画の方に進んだのです。(⋯⋯)
私にとって、詩作行為から映画への移行は大そうデリケートな問題でした。ある時期まで詩を書き続けてから映画に進んだのですが、私は、映画が詩的体験にもっとも近いものと確信していたからです。(ベルトルッチーー蓮實重彦インタヴュー1982年『光をめぐって』所収)