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2019年1月7日月曜日

症例チバ

前回、「知の言説」で記しちまったから、言説の移行しなくちゃな。以下の文は、ま、ヒステリー言説ってのかな。ボクはこういう反動がかならずあるんだ。大学人の言説で記したあとは、すぐさま是正しなくちゃいけないっていう。

⋯⋯⋯⋯

最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。(『闘争のエチカ』蓮實重彦、1988年)

30年前の話で、しかも比較的質の高い筈の文芸雑誌の話だ。現在の、質の高いとは到底言えないツイッター社交界では泥沼的状況だな。

「哲学者」兼「批評家」と称する人物で、後楽園のマウンドに立っているらしきボクはこんなこと言っているがね。

千葉雅也@masayachiba
ネットのヤジは、よりよい生産活動を願っての建設的批判ではなく、たんに、こいつのやる気を削いでやろう、おとなしくさせてやろう、というものであり、内田樹氏はそれを「呪い」と呼んでいたが、まったくその通りである。自分をよく知る人が礼儀を守って言う批判以外は一切聞く必要がない。 (2019年1月3日)

前半はまだしも、後半の《自分をよく知る人が礼儀を守って言う批判以外は一切聞く必要がない》ってありかね? よくこんな恥ずかしいこと言えるもんだな。仲間同士の礼儀正しい批判のみ聞くだって? 文脈ありかな、と思い前後をみても、どうやらマガオで言ってるらしい。

そもそもチバってのは、なぜあんなに他人の評価を気にするんだろうな、バカにでも褒められれば喜んでいるようだし。たんなる販促活動に終始してんだろうか?

・賞賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

・思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。(同 184番)

一見こういった感性さえないようにさえ感じられてしまうけど、まさかそれはないよな、いくらなんでも。

たぶん次のような態度を取っているんじゃないか。

お世辞に寛大。――飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気づかれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることであるーー全く寛大でいることが出来る神のように。(ニーチェ『曙光』300番)

とはいえ、他人のこと分析しているつもりらしいチバは、自己分析がほとんどできてないんじゃないだろうか。

ま、自分の無意識は他人のそれよりも分からないというのは「常識」ではありながら。中井久夫が《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからない》と言っているように。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている[Human being cannot endure very much reality ](中井久夫超訳エリオット『四つの四重奏』)

やっぱり誰かあいつを《おとなしくさせて》やらなくちゃいけないんじゃないだろうか? 意地汚い呪いじゃダメだがな、そもそも呪いは効果がないよ。

浅田「ドゥルーズの話で前に言っていたけどね、(AOで)connecticutというのをconnect-i-cutとする、直訳すると「接続せよ-私は-切断する」というように、コネクション(接続)とカット(切断)が同義であるようなものとして、リゾームと言っていたわけじゃないですか。今(の若手論壇)は明らかにコネクション(接続)の方ばっかりですね。

〔……〕千葉雅也さんに今さらカット(切断)と言われてもそんなの最初からそうだよとは思うけどね。(浅田彰×東浩紀「「フクシマ」は思想的課題になりうるか)
@masayachiba 浅田さんの場合の逃走と、僕の言う非意味的切断はけっこうニュアンスが違うのよね。 そのあたりを読み取ってほしいですね。浅田さんは強度の人。僕は弱度の人。

弱度の切断でもいいけど、やってるんかね。閾値が低いんだろうかな。少なくともやめといたほうがいいんじゃないか、バカが褒めた鳥語やらブログやらを頻繁にリツイートするのは。

チバのカット不能な人格がデフォルトにならないようにするのが、来るべき日本言論界を期待するための使命じゃないだろうかね。

反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(ニーチェ『反時代的考察』)

あんなにレスポンスを気にしている「批評家」、しかも《自分をよく知る人が礼儀を守って言う批判以外は一切聞く必要がない》なんてマガオで言ってるボクってのは、「批評の死」の世代の典型に他ならないからな。

蓮實重彦)なぜ書くのか。私はブランショのように、「死ぬために書く」などとは言えませんが、少なくとも発信しないために書いてきました。 マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表象の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。私は彼らの後継者を自認するほど自惚れてはいませんが、この動物的な「愚鈍さ」の側に立つことで、何か書けばその意味が伝わるという、言語の表象=代行性(リプレゼンテーション)に対する軽薄な盲信には逆らいたい。

浅田彰)  …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。

蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。

――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰)

 浅田彰は最近になってもくり返しているけれどさ、アキラちゃん、なんでチバに直接言ってやらないんだろ? 諦めてんのかな。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞

チバってのは、結局、「地方の広告代理店の経営者の息子」人格だろうな。ま、そういった意味ではカシコイがね、日本言論界でポジションを獲得するには、何が最も効率的なのかを学生時代から熟慮して活動してたんじゃないか。あくまで推測だよ。

いまではしっかりポジション獲得したから、玉石混交鳥語でもいいわけさ。出版社も彼の名があれば、本は売れるから、チバ批判は勘弁してくれ、って姿勢なんだろうよ。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)


たとえばボク珍はこんなこと言ってるらしいがね。彼のRTから拾ったんだが。

千葉 いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)

僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。(欲望会議)

ーーフロイトの無意識について何も分かってないんだろうかな、こんなこと言えるなんて。マツタクとつるんでるんだから、まさかそんなことありえないと思うんだが。マツタクも上っ滑りラカン派には相違ないが、まさかこんな程度のことは知らないわけがないしな(そのうち「症例マツタク」やろうかな、資料はふんだんにあるんだ、2010年ぐらいからな、ま、でもまだ若いからな彼は。メジャーにもなる気配はないし。蚊居肢散人の罵倒要項にはまだ合致しないんだ)。

現在のラカン派議論の核心とは、無意識の二重構造の上階が、ラカン曰くの《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)、つまりエディプスの斜陽時代の禁止なき超寛容社会のために剥がれ落ちて、地階の無意識が前面に出ているということだ。けっしてこの無意識はなくならない。《症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme》(ソレール、2011)というどのラカン派も認知している筈のテーゼがそれを示している。





事実、21世紀という原抑圧の時代と、ラカン派業界ではがいたるところで語られている(参照:「父の蒸発」後の「母女」の時代)。ラカン派とは関係がないエティエンヌ・バリバールだって「エスの悪」の時代と言っている。

たとえば次の二文が示しているのは、下部構造としての無意識(原抑圧あるいはリビドー固着)のこと。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
症状は、こう定義する他ない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識が各人をそう定めるがままに。le symptôme n'est pas définissable autrement que par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine. (ラカン、S22, 18 Février 1975)

いくらなんでもこんなことを知らないわけがないから、たぶん、おそろしく劣化してしまった21世紀の精神分析知に安住して、つまりバカ向けに語っているんだろうが、あれがデフォルト認識になっちまったら、こまるだろ。

なんらかの文脈があったってーーたとえばむかしむかしの「精神分析音痴」東浩紀文脈で今頃無意識語っていいわけないしな、ラカンが《勘弁してもらいたいもんだ Qu'on me l'épargne Dieu merci !》(参照)といったデリダ依拠の無意識、あるいは《工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める》・・・ーー、で彼らは無意識ないってわけかい? まさか!!!

人には抑圧の無意識はなくても排除の無意識はかならずある。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


なにはともあれ、なんでたとえば京大組のタチキとかマツタクとかはそうそうに手厳しく罵倒しないんだろ? あいつらもバカ組かな。もしフロイトの核心テーゼ《リビドー固着Libidofixierungen》(参照)、あるいはラカン派核心テーゼ《症状のない主体はない》を受け入れるなら、はやいとこ宣戦布告しなくちゃな。


◆An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011)

――無意識にかんして質問します。無意識概念は新しい病理、新しいアイデンティティと主体性において役割があるのでしょうか、それともないのでしょうか?

異なった視点が必要です。我々が無意識を概念的に吟味するなら、フロイトが「システム無意識」・核(夢の臍、菌糸体等)と呼んだものと、「抑圧された無意識」がある。無意識の核に、フロイトはリビドー的なもの、構成的なもの、かつまたトラウマ的なものを含めています。この理由で、これらは明確には決して言葉で言い表されない。はっきりした象徴化は不可能です。

「抑圧された無意識」、それは力動的無意識とも言われますが、それは再構築されうるし、言葉で言い表されうる。神経症とは抑圧された無意識の病理です。この理由で古典的な技法ーー自由連想ーーの効果がある。けれどもわたしたちは現在、以前に比べてとてもしばしば無意識の核(システム無意識)に直面しています。すなわちトラウマ的なもの、リビドー的なものであり、この理由で快と不安の病理があります。

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになります。それは古典的な神経症の治療とは全く逆なものです。かつての神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならなかった。(ポール・バーハウ、インタヴュー、2011年)

ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」


ようするにチバは「享楽」という言葉をしきりに口に出しているにもかかわらず、享楽、つまりリビドー固着にかかわる無意識については知らんぷりで、欲望の無意識・ 「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」についてのみ語っている、あの文だけを見る限りだが。

フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」における無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwを表す。

これらは、欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、力動的無意識あるいは抑圧された無意識は、「無意識の形成」と等価である。

無意識の力動的相は、症状の部分がいかに常に意識的であるかに関係する。事実、口滑りは声に出されて話される。だがそれは同時に無意識的レイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)

今、最も明瞭簡潔に記されているバーハウ文を掲げたが、ラカン主流派の観点ももちろん同様(参照:ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」)。

さらにもっと簡潔に言えば(上にも記したように)人には抑圧の無意識と排除の無意識があり、後者は中井久夫がトラウマ神経症をめぐって明瞭に語っている(参照:解離と異物)。抑圧の無意識がなくなっても排除の無意識ーー「生体の機能」ーーはなくなるわけがないのである。

中井久夫は別に「マスクされた精神病 masked psychosis」・「マスクする神経症 masking neurosis」を1990年の『治療文化論』で語っているが、マスクする神経症が取り除かれれば、地階にある精神病的なものが現われる。これを認めないのは、立場の違いという範囲をはるかに超えており、もはや精神分析の基本を否定することに他ならない。

フロイトによる無意識の発見以来、病理過程は「防衛」を基礎に説明されている。そこでは「抑圧(追放・放逐)」が際立った場を占めている。フロイト以後、多かれ少なかれ、忘れられてしまっているのは、病理力動性内部における抑圧自体は既に二次的なものであるということである。実際は、抑圧とは欲動に対する防衛過程の加工 elaboration に過ぎない。

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「プシュケ(心的なもの)」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。…

享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002ーー症状の二重構造

さあってと、この文って呪いの言葉まぬがれてるだろうな、「メタ私」ってのはわかんねえからな、自分じゃ。ま、いいさ、呪いだったら呪いで。蚊居肢流正統的シャーマニズムである、あるいは健康のための嘲弄である・・・

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

じゃあ左様ナラ!

おい、ことわっておくがこれツイッターなんかでリンクするなよな、ボク珍、きっとヒステリーおこしちゃうから。


⋯⋯⋯⋯

で、こういうこと記すと今度は、バカなこと書いちまったかな、と思うんだよな。

《チバの精神分析的》言説を読むと、《基礎的精神分析知》を欠いた誇大妄想的な断言がやたらに多く、まあ、とうてい文化の域に達していない。……腹をたてるのはわかるけれど、これは論争によって決着をつけるべき相手ではない。つまり、文化の側に立って文化的とも呼びがたい状況を批判するというのは、その擬似文化をとりあえず既成の文化と見たててしまうことになるからです。むしろ、《チバ》など存在しないかのごとくに振舞うべきだと思う。(蓮實重彦『闘争のエチカ』変奏)

ああいったボウヤは存在しないかのごとく振舞うのが、真の知的アマトゥール(知を愛し愛し続ける人)なんだけどな。修行が足りないんだよ、オレは。


➡ 「女性の享楽は享楽自体のこと