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2019年1月6日日曜日

「愛のビジネス」の時代

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能なunmöglichen」仕事 Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカン理論の華である「四つの言説」は、フロイトが掲げた三つの不可能な仕事「教育」「支配」「分析」に、もう一つ、最も基本的な不可能である「欲望」(ヒステリー)を付け加えたものである。





今、四つの言説以外に四つの言説の基本構造の図を最後に付け加えたが、これはそれぞれの四つの言説の基盤にはこの構造があるという意味である。

たとえば、一つだけ例を挙げれば、大学人の言説は次のような形で読む必要がある。




中立を見せかけた教師S2は、他者のポジションにある生徒aに向けて語りかけ教育する(→)。だが完全に教育することは不可能である。したがって残余としての欲望の主体$が生れ活性化する(↓)。その主体$はふたたび教師S2に問いかける(右下部から左上部への矢印)。こうして永続的な循環運動が生じる。

左端の上方への矢印(↑)は、知的中立を装った見せかけの教師S2は、真理としての支配欲 S1を隠蔽しているという意味である。斜め上に向う矢印(⤴)は、生徒は教師の隠蔽された支配欲を感じとる場合があるという意味である。

一般に生徒のポジションに置かれた「a」とは、教師の「欲望の原因」、あるいは「眼差し」とされる。いまわたくしが記しつつある文は、この「大学人の言説」の構造をもっている。もっと簡単に「知の言説」と呼んでもよい。

われわれはこの言説に終始してしまうことを恥じなければならない。啓蒙的な知の言説で書かざるをえないときもあるだろうが、すくなくとも言説の移行を常に試みなければならない。

人は、「知の父性原理の権化である論文形式」(バルト)に出会えば、なおさらいっそう隠蔽された支配欲の厚顔無恥な臭気をふんだんに嗅ぐことだろう。したがってある種の作家はきまってエッセイ形式を取るのである。エッセイ形式とは、ときにヒステリーの言説、ときに分析家の言説である。

充分に自覚せざるをえないのですが、私は、エッセイと呼ばれるもののみを刊行してきました。エッセイとは、書くことが主体を分析と競わせる曖昧なジャンルにほかなりません。(⋯⋯)それゆえ、科学と、知と、厳密さと、規律のとれた学問的創意が支配しているこの家に迎え入れらたのは、まぎれもなく、一つの不純な主体なのです。(ロラン・バルト『コレージュ・ド・フランス開講講義』1977年)

さて今示したことからも分かるように、ラカンの「言説」の意味は、フーコー的「言説」では全くない。

言説discoursとは何か? それは、言語の存在 existence du langageによって生み出されうるものの配置のなかに、社会的結びつき lien social の機能を作り上げるものである。(Lacan, ミラノ講演、1972)
ラカンが四つの言説と呼んだものの各々は、変動する愛がある。それは、諸言説のダイナミズムにおけるエージェントの変動のように機能している。そして、ラカン以後、われわれが「社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「性愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。(A New Kind of Love Jacques-Alain Miller)

すなわち四つのディスクールとは、「四つの性愛の結びつき」と言い換えうる。さらにそれは、人間関係を構築するための「四つの症状」と言い換えてもよい。

愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………

われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…

次の前提を見失わないようにしよう。ラカンが構築した四つの言説の各々は、主人と奴隷、教師と生徒、ヒステリーと主人、分析家と分析主体(被分析者)である。これは歴史において証明されている。いかに多くの男女のカップルが、この四つの関係を元に結びついてきたかを。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


ソレールが言っている「主人と奴隷」、「教師と生徒」、「ヒステリーと主人」、「分析家と分析主体」という表現の意味は、「命令(指示)する者と従う者」、「教える者と教えられる者」、「欲望する者と欲望される者」、「沈黙して時に合いの手で応じる者と欲望を語る者」の関係である。



したがって、それぞれの「主人の言説」、「大学人の言説」、「ヒステリーの言説」、「分析家の言説」を文字通り取ってはならない。例えば「大学人の言説」の大学とは、教育機関の大学とは基本的には関係がないのを上に示した。

ソレールの言っているように、愛の関係、さらに言えば人間関係とは(基本的には)この四つの結びつき以外は稀である。リビドーの退行症状、つまり自己愛のみにリビドー撤収のある「自閉症者」やナルシシズム神経症者等ーーフロイトは分裂病を「自己愛精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen」としたーー、これらの症状者以外は、この四つの結びつきのどれかを基本的には取っている筈である(21世紀的例外は後に記す)。


たとえば夫婦関係の場合、妻が分析家のポジションに立つ場合がある。

ここでジジェクのとても優れた記述を、やや長いが掲げよう。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

(⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

たとえばルー・アンドレアス・サロメは、ニーチェとリルケに対してこの分析家のポジションに立っていたのではないだろうか? この偉大なる二人の詩人は、サロメによって裸にされたはずである。とくにニーチェの永遠回帰の裏面にあるものへの指摘。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894ーー永遠回帰に対する最も深い異論は母である

彼女はのちにフロイトに弟子入りしたが、フロイトさえサロメの沈黙の語りを怖れているようなのが、その書簡から窺われる。

⋯⋯⋯⋯ 

さて四つの言説の例外である。ラカンは学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)を語った。それは、四つの言説の代表的な言説「主人の言説」から「資本の言説」への移行の指摘に直接的にかかわる(参照:資本の言説(簡潔版))。

父なき世代には四つの言説の例外的言説である「資本の言説」ーーこれは、後期資本主義時代における社会的結びつきという意味であるーーこの言説が顕著になっている。




見ての通り、「不可能」がなくなっているのである。しかもS1=$という私支配。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu.(Lacan, S20, 13 Février 1973)

※参照: 資本の言説と〈私〉支配の言説


資本の言説の時代には愛はない。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の事柄 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

たとえば日本においても、「婚活」という似非愛の結びつきの試み、「女子力」という経済用語的表現の流行。すなわち愛のビジネスの時代。

資本の言説はカップルを創造しない。ラカンは…とても確信的にこれを示そうとした、資本家と労働者によって構成されるペアは、主人と奴隷の近代的ヴァージョンではないことを。

資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である。affair とは、何よりも先ず、ビジネスのことである(すなわちラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。…

資本の言説は、愛の事柄 choses de l'amour について何も語らない。人々が《アフェアーles affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説内部の四つの言説)とは異なり、現実界的非関係 non-rapport réel を補填しないのである。…この意味は(われわれの時代は)「性関係はない」という事実にいっそうの光を照射するということだ。以前の時代に比べ、性的非関係 non-rapport sexuel の孤独 solitudeと気紛れ précarité の帰結がさらにいっそう暴露されたままになっている。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

フロイトは《文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften》、あるいは《共同体神経症 Gemeinschaftsneurosen》の試みを『文化のなかの居心地の悪さ』でしているが、上に記されている内容は、ラカン派による社会病理分析のさわりである。

ラカンの処方箋はこうである。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョンTÉLÉVISION、1973年) 
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

なんらかの形で父の名が必要なのである、かつての支配の言説を避けつつも。父の名があってこそ、「愛のビジネス」は「愛の症状」に移行しうる。

まずは簡単なことから始めればよいのである。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22. 11 Mars 1975)

たとえば男女が愛称で呼び合うことで、ラカン派における根源的真理である「性的非関係 non-rapport sexuel」というトラウマ的カオスの穴埋めがなされ、「愛の症状」は生じうる。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内部に中心となるもろい一点を固定しようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観(歩幅 allure)」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この歩幅に逃げ道 échappée を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)




ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

リトルネロとはラカンにとってララング(=母の言葉)である。《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (Lacan、S21,08 Janvier 1974)

「名付けること」によって、それ以前の混沌としたマトリックス的な世界の中にただよっているものが区分され明確となる。この過程をバリントは「物質」matter から「対象」object への移行と述べている。ここで「基盤」としてのマトリックス(語源的に「母」である)がなければ、空間開拓もありえないことを付言しておこう。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

⋯⋯⋯⋯

※付記

主人の言説の時代と資本の言説の時代の相違の例を掲げておこう。主人の言説の枠組みのなかのひとつ、ヒステリーの言説を例にとる。

ヒステリーとは通念としてのヒステリーではない。

ラカン自身、こう言っている。

私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)

ラカンは生涯、フロイトという精神分析の主人S1に問い続ける人生を送った。




ーーここでの真理のポジションを「非全体」としたのは、フロイトが全てではない、という意味である。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

非全体Ⱥを「去勢」に置き換えてもよい。

真理の愛とは、弱さへの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さへの愛、真理が隠していたものへの愛、去勢の愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)


たとえば読書とは基本的にはヒステリーの言説である。読者は作家との不可能な関係をもつ「発酵」のある知が生まれうる。だが資本の言説の時代の読書とは、多くの書がビジネス書、マニュアル書、啓蒙書として扱われてしまう(仮にその分野の書でなくても)。ツイッターでの新刊書への即座のレスポンスはその典型である。