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2018年11月10日土曜日

永遠回帰に対する最も深い異論は母である

柄谷=カントのボロメオの環」で、最晩年のラカンの告白を引用した。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])


結論する時」でニーチェとラカンを並置させたのだから、この際、ニーチェの最晩年の告白を並べとかなくちゃな。何度も引用しているけど並置はさせていないから。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind.。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の正式版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: : Ecce homo - Kapitel 3


これもくり返して引用しているが、ニーチェのアリアドネのひとりの言葉もやっぱり並べとかなくちゃな。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。

Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

……………

やっぱり『わたしの恐ろしい女主人」なんだよ、真に永遠回帰するのは。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--

このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。

「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」--

………「嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足Taubenfüssenで歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。

おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来らざるをえない者の影として歩まねばならぬ。」

……「わたしは欲しない」

と、わたしのまわりに笑い声が起こった。ああ、なんとその笑い声がわたしのはらわたをかきむしり、わたしの心臓をずたずたにしたことだろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

ーーこの「鳩の足」はじつは「狼の足」だといっているのは、死の年のデリダだ(参照:世界の闇)。

《ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.》[Winter 1884 — 85])

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)


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享楽自体、穴を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme. (ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003

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「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

S(Ⱥ) とはȺ(大他者のなかの穴 trou dans l'Autre)あるいはフロイトのモノdas Ding を指し示す「境界表象 Grenzvorstellung」である(冒頭に引用したラカンの「性関係はない」もまたȺで示される)。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réel と呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

ーー《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)、これはフロイトの反復強迫のことだが、モノが永遠回帰するのが核心だよ、ファルスの鎧でがちがちになっている「善人」以外はね。

ファルスの鎧とは、言語の鎧のことだ。

言語は父の名である。そしてさらに、言語は超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)

そのとき人は、かりに現実界を感知できてもファルスΦが言語界に穴をあけるほうの現実界しか関知できなくなる(科学的現実界、論理的現実界)。だが真の穴Ⱥは別のところにある。





フロイトの『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、決定的な文がある。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。これが後期ラカンの現実界の核心だとミレールはくどいほど繰り返している。

あるいはコレット・ソレール。
現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外部の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)