「なぜわたしはこんなに賢明なのか」「なぜわたしはこんなに利発なのか」と記したニーチェであるが、蚊居肢散人は、残念ながらニーチェほど賢明でもなく利発でもない。噂によればニーチェの耳の垢ほどの聡明さもないなどという評判さえある。だがそれは言い過ぎというものである。
いずれにせよ、蚊居肢子は、ラカン主義者というよりも、まずなりよりもニーチェ主義者なので、以下の罵倒要項の四つを厳密に守ることにしている。ただし賢明さはニーチェの半分(?)ほどしかないので、四つのうちの二つに当てはまる場合のみ、実名を掲げて罵倒する。貴君はまだひとつしか当てはまらないので、実名をあげて嘲罵することはしない。ご安心を。
わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。
第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。
第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。
第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。
第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』)
ただしときに成島柳北主義者になることもあるのでご用心を。
今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、
世ノ好古家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、 ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。(「好古小言」濹上漁史)
すなわち、
諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。
務メテ雅致ヲ失ハズ、
空シク倒錯ニノミ流レザルヲ可トス。
コケッコリー先生少シク注意シ給フ可シ。
平成二十九年四月二十二日深更、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。
とはいえこれも、ニーチェ主義者の一環ではある。
最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)