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2018年3月7日水曜日

「父の蒸発」後の「母女」の時代

「幻想の横断」・「自由連想」・「寝椅子」のお釈迦」に引き続く。

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中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ラカンは、学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言っている。

父が蒸発すれば、母が現われる。すなわちS1が蒸発すれば、S(Ⱥ)が現われる(参照:S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴)。



父性隠喩は象徴界の症状、母性固着は現実界の症状にかかわる。これは中井久夫用語では、成人言語以後(エディプス期以後)の症状、成人言語以前の症状である。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)

ラカン派による注釈に戻れば、

現実界は、そこにある。もし顕現していなくても、明示されてそこにある。ファルスの非全体 le pas-tout phalliqueは、女性の享楽の「ゲーム」« jeu » la jouissance féminineへと入り込む。「母女 Mèrefemme」(ミレール)⋯⋯幼児はこのトラウマ的遭遇から身をかわしえない。

Le réel, vous le dites, est là, désigné, sinon dévoilé : le pas-tout phallique fait entrer dans le « jeu » la jouissance féminine. « Mèrefemme »… le sujet enfant ne peut se dérober à cette rencontre traumatique. (À PROPOS DE L’ENFANT ET LA FÉMINITÉ DE SA MÈRE, OUVRAGE COLLECTIF. 2015, Marie-Christine Baillehache Et Romain Lardjane.)

ララング(母の声)という用語を使って言えば(参照:「ララング定義集」)、

身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER

である。

ところで、上の Christine Baillehache Et Romain Lardjane の記述にあった、《ファルスの非全体 le pas-tout phalliqueは、女性の享楽の「ゲーム」« jeu » la jouissance féminineへと入り込む。「母女Mèrefemme」(ミレール)⋯⋯幼児はこのトラウマ的遭遇から身をかわしえない》とは何か?

ラカンは1974年にこう言っている。

(身体外 hors corpsのファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA](参照) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

現在は、ファルス享楽の彼岸にある、他の享楽(=身体の享楽・女性の享楽)の時代といいうる。これをジャック=アラン・ミレールは「母女 Mèrefemme」(の時代)と言っているのである。

そして他の享楽=身体の享楽=女性の享楽とは、固着の対象(原抑圧の対象)である。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)

フロイトの「固着 Fixierung 」については、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」を見よ。

いまは二文のみ引用しておく。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

こうして現在は原抑圧の時代と言われるのである。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事」とフロイトが「固着」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

これはジジェク表現なら「父なる眼差し」(自我理想)の時代から「母なる声」(超自我)の時代への移行にかかわる。

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF

前回記したことをめぐって、厳密さを期さずに言ってしまえば、「幻想の横断」・「自由連想」・「寝椅子」とは「父なる眼差し」の時代の臨床であり、現在においては、基本的には(一部の残存的ヒステリー症状以外には)マッチしない。穏やかに言えば、上に引用した中井久夫曰くの《今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない》であり、真の問題は《成人言語以前の世界》なのである。

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さて以下は、ここでの「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』)篇としてもういくらかつけ加えておこう。

冒頭のラカンや中井久夫は、1970年をひとつの節目としているが、「父の蒸発」つまり「母女」の時代がいっそう鮮明になったのは、「マルクスの父」蒸発の1989年以降である。

「母女」の時代とは、父の支えがなくなり、二者関係的ーー弱肉強食的になった新自由主義の時代である。《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan, S5, 22 Janvier 1958ーー「母の法と父の法(父の諸名)」)

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

三者関係と二者関係についても、次の中井久夫の簡潔な説明を掲げておこう。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)

最後に柄谷行人図式ーーいくらかラカンの捉え方とは異同があるがーーに、わたくしが「パパ推移」をつけ加えた図を掲げておく(「パパよ、戻ってきてくれ!」)。