2017年4月15日土曜日

パパよ、戻ってきてくれ!(パパーママーボクの三角形)

前回、「「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行」に記したことを簡潔に言ってしまえば、さんざん非難されてきた《パパーママーボクの三角形》のパパはとっくの昔に消えてしまったけれども、今度はその「パパ」に戻ってきてくれ! という話である。

さて今回は、まずフロイトの『集団心理学と自我の分析』における名高い「自我理想」図を掲げる。




この図を、仏女流ラカン派分析家の第一人者コレット・ソレールは簡略化させて次のよう図示している。




これはパパーママーボクの図と同じ構造である。




そしてコレット・ソレールは、いなくなってしまった「パパ」の役割の「再構成・再導入」の必要性があると言っている(Paul Verhaeghe、The collapse of the function of the father and its effects on gender rolesより、pdf

これは何も彼女独自の見解ではない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

この最晩年のラカンが言っているのは、男根的なパパはいらないが、パパの機能はやっぱり必要だということである。

それは柄谷行人が次のように言っているのと同じ意味である。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷の世界史の構造の図に「パパ推移」をつけ加えれば次の如し。


 ーー世界はパパがいないと弱肉強食になるのである。




けれども昔のような帝国パパでは、いまさらいくらなんでも困る。

だから帝国(パパ)を否定し且つパパ(の機能)を回復することが必要なのである。

なぜパパの機能が必要なのか? ーーその機能がないと二者関係的になってしまって食うか食われるかになるからである。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』p169)
重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

実際、パパがいなくなってからーー1968年の学園紛争による権威のパパの斜陽を経て、1989年の冷戦終結によるイデオロギーのパパの消滅ーー、次のような状況になっている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

だからやっぱりパパが必要なのである。「パパなき自由」などありえないのである。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できない享楽主義 inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016、pdf

 このジジェク文は、ハンナ・アーレントが1954年に書いたことと同じことを言っている、《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する。》(『権威とは何か』)

ところでいま上に引用したジジェク文には、次の註がついている。

注)真の「主人」でありうるのは、容易なことではない。「主人」であることの問題は、ドゥルーズによって簡潔に定式化されている。すなわち、《あなたが他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘る。si vous etes pris dans le reve de l'autre, vous etes foutu 》。

そして「主人」は、全くその通りに、他者・臣下の夢に囚われる。この理由で、主人の疎外は、臣下の疎外とは比べようもなく根源的である。主人は、この夢のイメージに従って、行動しなくてはならない。すなわち彼は、他者の夢のなかの人物像として振舞わなければならないのだ。(ジジェク、2016)

ーーパパはとっても難しい仕事だ、と。日本でも明治からの疑似一神教体制のなかで、昭和天皇はいつのまにか、臣下の夢の罠に嵌って墓穴を掘ってしまった。

で、こういうふうにならないパパとは何なのか。
それが問題である。誰も分からない。

だがこれを解決しないと、このままの二者関係的食うか食われるかの世界がますますひどくなる。

つまりは他者蹴落とし・攻撃欲動の社会が、いっそう輪をかけて進展していくのである。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )

もちろんこの考え方を否定して、別の理由を見出す努力をしてもよろしい。たとえばレイシズム、ナショナリズム、原理主義等々の1990年以降の猖獗の理由を。

(もっともここでつけ加えておくが、ラカン自身、父の機能はまったく失われたわけではない、と1972年には言っている。「ウケる épater」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父がいる、と。この父なら現在のトランプ大統領だってそうではなかろうか・・・すくなくとも爆弾落として驚かすのは得意そうなタイプである・・・)

だがどうもまともな父として機能する存在をーーそれは「理念」という父や、レヴィ=ストロースのいうマナやら浮遊するシニフィアン signifiant flottant(象徴的効果 L'efficacité symbolique)やら、すなわち世界的な「象徴天皇制」(柄谷いわくの江戸時代風の)でもいいはずだがーー誰も探しだせているようにはおもえない。

イズレニセヨ無邪気なドゥルーズ愛好家だったミナさん、オメデトウ! 

わたくしの手許には残念ながら『無人島』はないので、中山元氏の書評から抜き出しておく。

ドゥルーズ『無人島 1969-1971』

ドゥルーズがガタリと共同で執筆し、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などを出版したころに発表していた論文を集めた「ドゥルーズ思考集成」の第二巻に相当する。とくに精神分析批判が中心となるのは、まあ予想された通りであり、いくつかの論文やインタビューは、すこしはしゃぎ過ぎなほどに、パパ-ママ-ボクの三角形の批判を展開する。(中山元:書評『無人島 1969-1971』ジル・ドゥルーズ

ドゥルーズ&ガタリの言い方を斜め読みすれば、世界は「充実した」他者蹴落しの「器官なき身体」になったのである。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の本能、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

この器官なき身体は、他者蹴落しと金目のものには、蜘蛛のごとく獲物に襲いかかるのである。

器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

この蜘蛛は、たとえば原発災害があれば、ボロ儲けできる「除染」には飛ぶように急ぐが、金目になりそうにない「被災者住宅建設」には、眼も鼻も口もなく知らんぷりという器官なき身体である。

ドゥルーズははしゃぎ過ぎた甲斐があったのである。彼の予想を超えて、《欲望機械 Les machines désirantes》、つまり《ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態 l'état libreで、途切れることなく sans coupure、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走》する機械が、レイシズムやら原理主義やらナショナリズム、そして勝ち組/負け組の分断に精を出す世界が訪れたのである。

なんという「欲望する機械 Les machines désirantes」の滑走!
なんという「純粋流体 pur fluide」! 
なんという「自由 libre」!

いやあ、オメデトウ!!!