で、おまえさんはあの「完全ロバ」の「才気ある(?)同盟者」の決定版だな、《一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者》(クンデラ『不滅』)
ラカンは「リチュラテール lituraterre」1971で、デリダの名を出さずに(だが明らかにデリダに向けて)、《勘弁していただきたいものだ Qu'on me l'épargne Dieu merci !》と言っているけどさ、
たとえばドゥルーズ(&ガタリ)の次の記述もそうだ。
偉大なるファルス le grand Phallus、欠如 le Manque…それは純粋に神話的なものであり、否定神学の〈一者〉のようなものである。le grand Phallus, le Manque …est purement mythique : il est comme l'Un de la théologie négative. (ドゥルーズ&ガタリ、アンチ・オイディプス)
紋切り型なんだよ、ラカンが否定神学的だっていうのは。
以前も記したんだけど(参照:前回の図)、ラカンの1959年4月における「大他者の大他者はある」から「大他者の大他者はない」の移行に触れずに、否定神学なんて言ってるヤツは、徹底的なおバカなんだよ。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf)
もちろんこの「大他者の大他者はない」であってさえ、やっぱり否定神学だ、というのを明示してんだったら、聞く耳をもってもいいさ。でも相変わらずファルス一辺倒なんだから。
ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 manque du manque である。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité)と。
デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴的要素 intrasymbolic element として、常に考えているように見える。(ロレンゾ・チーサ 2007, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)
すなわち現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10、28 Novembre l962)
あるいは、
欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel(Lacan、1976 AE.573)
これが1959年以降のラカンだよ、《シニフィアンが穴を作る le signifiant fait trou》(ラカン、S22, 15 Avril 1975)、すなわち表象が穴を作る、象徴界が穴を作る、《象徴界によって構成される穴 trou constitué par le Symbolique》(同上)
穴の意味合いの詳細版は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。ようはファルスは欠如にかかわる。S(Ⱥ)は穴にかかわる。中期以降のラカンとは、S(Ⱥ)のラカンだよ。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥのシニフィアン。非全体のシニフィアン。非関係のシニフィアン。ブラックホールのシニフィアン。
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice)
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
ま、こういった後期ラカンでなくても、中期ラカンでもいい。
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
つまりすべての表象は、それ自身に一致しない。表象は非全体、非一貫的だというのがラカンだよ。
「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)
偶然性を唯一の必然性として絶対化するメイヤスーの仕草は、思弁ではなく、観念論に陥っている。すなわち、「すべては偶然性である、この偶然性に必然性以外は」という彼の考え方。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)
我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。
(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した支えもない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なる形で、非全体(pas-tout)概念が、目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁することができ、そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。
(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)
そもそも「メタはない」っていってんのに、なんで否定神学的なんだ?
シニフィアンの場 lieu du signifiant としての大他者 l'Autre の概念から始めよう。権威によるどの言表内容 Tout énoncé d'autorité も、それ自身の言表行為 énonciation même 以外の支え garantie はない。別のシニフィアン autre signifiant をもとめるのは虚しい。いかなる仕方でも、シニフィアンの場の外部 hors de ce lieu に支えは現れ得ない。これが、「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage 」の意味である。格言風に言えば、「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」である。(ラカン、E813、SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960年)
デリダもドゥルーズも、1959年4月以前のラカンを標的にしてるだけだよ。
オワカリダロウカ? もう勘弁してくれ。