実に「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄=菊池寛)に行き当たってしまうと、《それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足 Ersatzbefriedigungen を求めるようになる》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)よ
とはいえたぶん誰も相手にしてないのだろうからーー貴君のようなバカのゼロ度以外はーー、悪罵するのはオトナゲナイかもな・・・
いずれにせよ、シキシーマは、《「 普通精神病」 (ジャック=アラン・ミレール)や「一般化倒錯」(コレット・ソレール)》に触れつつも、《倒錯=自閉症は言語への参入に抵抗を示すという意味において、構造の手前に留まろうとする非定型発達である》なんて言ってんだからナーンニモワカッテイナイ証拠だね。
「一般化妄想 délire généralisé 」(ふつうの精神病)も、「一般化倒錯perversion généralisée」も、自閉症的身体の享楽の穴埋めをする手蔓なのに(参照)、倒錯=自閉症ってそもそもなんだ? シンジレン! たぶん「「仮性の自閉症」という「疑似風土病」」までラカン派議論の「自閉症」に含めてしまうという至高の阿呆を演じてるんだろうがね
しかもシキシーマはこんなことを書いてしまっている。
信じがたいよ、いまどきファンタムの横断(幻想の横断)が、分析の終りなんていう中期ラカンに依拠するなんて。しかも一般化倒錯や一般化妄想にふれつつの。
ここでラカンが言っている意味もナーニモわかってないんだよ。
ようするに自由連想にかかわる転移性無意識の臨床(幻想の横断の臨床)というのは、現代ラカン派ではお釈迦である。拝みたければ拝んだらよろしいだけだ。《分析における転移性無意識 l'inconscient transférentiel は、すでに現実界に対する防衛 défense contre le réel である。》
ミレール派のたぶんナンバースリーPierre-Gilles Guéguenはこう言っている。
いずれにせよ、シキシーマは、《「 普通精神病」 (ジャック=アラン・ミレール)や「一般化倒錯」(コレット・ソレール)》に触れつつも、《倒錯=自閉症は言語への参入に抵抗を示すという意味において、構造の手前に留まろうとする非定型発達である》なんて言ってんだからナーンニモワカッテイナイ証拠だね。
「一般化妄想 délire généralisé 」(ふつうの精神病)も、「一般化倒錯perversion généralisée」も、自閉症的身体の享楽の穴埋めをする手蔓なのに(参照)、倒錯=自閉症ってそもそもなんだ? シンジレン! たぶん「「仮性の自閉症」という「疑似風土病」」までラカン派議論の「自閉症」に含めてしまうという至高の阿呆を演じてるんだろうがね
しかもシキシーマはこんなことを書いてしまっている。
否認とは所与の現実を認めず、法から降りてしまい、闘うことをしないで、フェティッシュによって所与の現実とは異なるファンタスムを形成し、法の構造の手前に留まろうとする態度を指すのである。現実を離れたファンタスムとは欠如が欠如した世界である。こうした態度はラカン派精神分析がファンタスムの横断を分析の目標=終結とする点とは正反対であることを指摘しておく。(シキシーマ、2017)
信じがたいよ、いまどきファンタムの横断(幻想の横断)が、分析の終りなんていう中期ラカンに依拠するなんて。しかも一般化倒錯や一般化妄想にふれつつの。
根源的幻想の横断をした主体はいかに欲動を経験するのだろうか? これは分析の彼岸にあり、けっして接近しえない。
Comment peut être vécue… par un sujet qui a traversé le fantasme radical …comment dès lors est vécue la pulsion ? Ceci est l'au-delà de l'analyse et n'a jamais été abordé. ( ラカン、S11、 24 Juin 1964)
ここでラカンが言っている意味もナーニモわかってないんだよ。
ようするに自由連想にかかわる転移性無意識の臨床(幻想の横断の臨床)というのは、現代ラカン派ではお釈迦である。拝みたければ拝んだらよろしいだけだ。《分析における転移性無意識 l'inconscient transférentiel は、すでに現実界に対する防衛 défense contre le réel である。》
精神分析は、知を想定された主体 sujet supposé savoir のおかげで、抑圧されたもの、そして抑圧されたものの解釈の水準で行われる。
しかし21世紀において、精神分析は別の相を探る精神分析の問いがある。別の相とは、法なき現実界と意味なき現実界に対する防衛 la défense contre le réel sans loi et sans sensである。
ラカンは現実界の概念 la voie du réel にてこの方向を示した。フロイトが欲動の神話的概念 le concept mythique de la pulsion.にて示したのと同様に。
後期ラカンの無意識は、現実界の水準にある。便宜上こう言おう、フロイトの無意識の底部 « sous » l'inconscient freudien にある無意識と。
したがって21世紀に入り込むために、我々の臨床は防衛の解体(防衛を散らすこと déranger la défense)、現実界に対する防衛の脱秩序化 (防衛を乱すことdérégler contre le réel )に焦点を当てなければならない。
分析における転移性無意識 l'inconscient transférentiel は、すでに現実界に対する防衛 défense contre le réel である。転移性無意識には、いまだ意図 une intention・意味(言いたいことconserve une intention)を保持している。
だが現実界の無意識は意図はない l'inconscient réel n'a pas d'intentionnalité 。それは「まさにそれだ C'est ainsi」の様相のもとで直面される。我々の「アーメンAmen」のようなものである。(LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE ▪ PRÉSENTATION DU THÈME DU IXème CONGRÈS DE L'AMP CONFÉRENCE DE JACQUES-ALAIN MILLER 、2012、PDF )
ミレール派のたぶんナンバースリーPierre-Gilles Guéguenはこう言っている。
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
これが普通の精神病、サントームの臨床における現在のラカン派の「常識」。幻想の横断というのは基本的にはお釈迦になっている。ま、「世の中で一番始末に悪い馬鹿」のたぐいの日本的精神科医やその取り巻き、お釈迦になった幻想の横断をいまだ拝んでいるだけの輩は他にも腐るほどいるがね。
でも現在のラカン派の「常識」はこうだよ。反ミレールの先鋒であるバーハウだってこの点にかんしては同意見。
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…
しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…
こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、PDF)
日本でも、たとえば中井久夫がとっくの昔に同じ意味合いのことを言っている。
今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。
この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
「成人言語以前の世界」をどうやって幻想の横断の臨床、自由連想の連想で対応するんだ?
ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).
※参照:詩人中井久夫の離れ技
⋯⋯⋯⋯
以下、一般教養篇。
ドゥルーズはそのマゾッホ論にて、カントの『実践理性批判』に依拠してこう記している。
ニーチェの「神の死」もこの考え方にかかわる、《ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、彼が言っているのは、物事を説明する原理、中心的で唯一の、全てにかかわる原理はないということである。》(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
そして、これらがまさに「ラカンの大他者の大他者はない」の意味である。
これもあってだろうーーもちろんそれだけではない、父の法の排除、母の法の否認をめぐる議論(サディズムにおける《母の否定 Négation de la mèreと父の膨張 inflation du père 、マゾヒズムにおける《母の否認(否定の否定 Dénégation de la mère、宙吊りsuspensif)と父の廃棄 annihilation du père》は、ことさら中期ラカン(幻想の横断の臨床)から後期ラカン(サントームの臨床)への移行のための示唆を与えた筈である)ーー、ラカンは、ドゥルーズのマゾッホ論を絶賛している。
ようするにドゥルーズによるマゾッホ解釈は、トラウマの穴埋めをする新しい倒錯像を提示しているという考え方である。
《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》についてのジャック=アラン・ミレールの最近の注釈も掲げておこう。
より詳しくは、「超越的法/超越論的法」を参照のこと。
法は善に依存するのではなく、逆に善が法に依存する。法は、その権利の源流となる上位の原理を基礎にして自らを築く必要はない。法は自らによって立たなければならない。すなわちそれ自身の形式、自らを基礎として。
La loi ne dépend plus du Bien, mais au contraire c'est le Bien qui dépend de la loi. La loi n'a donc plus à se fonder sur un principe supérieur d'où elle tirerait son droit. La loi doit valoir par elle-même, c'est-à-dire valoir par sa propre forme, se fonder sur elle-même (ドゥルーズ 『マゾッホとサド』1967年)
ニーチェの「神の死」もこの考え方にかかわる、《ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、彼が言っているのは、物事を説明する原理、中心的で唯一の、全てにかかわる原理はないということである。》(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
そして、これらがまさに「ラカンの大他者の大他者はない」の意味である。
シニフィアンの場 lieu du signifiant としての大他者 l'Autre の概念から始めよう。権威によるどの言表内容 Tout énoncé d'autorité も、それ自身の言表行為 énonciation même 以外の支え garantie はない。別のシニフィアン autre signifiant をもとめるのは虚しい。いかなる仕方でも、シニフィアンの場の外部 hors de ce lieu に支えは現れ得ない。これが、「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage 」の意味である。格言風に言えば、「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」である。
Partons de la conception de l'Autre comme du lieu du signifiant. Tout énoncé d'autorité n'a d'autre garantie que son énonciation même, car il est vain qu'il le cherche dans un autre signifiant, lequel d'aucune façon ne saurait apparaître hors de ce lieu. Ce que nous formulons à dire qu'il n'y a pas de métalangage qui puisse être parlé, plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre. (ラカン、E813、SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960年)
これもあってだろうーーもちろんそれだけではない、父の法の排除、母の法の否認をめぐる議論(サディズムにおける《母の否定 Négation de la mèreと父の膨張 inflation du père 、マゾヒズムにおける《母の否認(否定の否定 Dénégation de la mère、宙吊りsuspensif)と父の廃棄 annihilation du père》は、ことさら中期ラカン(幻想の横断の臨床)から後期ラカン(サントームの臨床)への移行のための示唆を与えた筈である)ーー、ラカンは、ドゥルーズのマゾッホ論を絶賛している。
言わねばならない。その問題の人物 le personnage en question、さる節目で、私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった j'ai félicité au tournant, c'était pas un clinicien。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)
要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。
(⋯⋯)我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋め合わせる combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をも作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
ようするにドゥルーズによるマゾッホ解釈は、トラウマの穴埋めをする新しい倒錯像を提示しているという考え方である。
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)
《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》についてのジャック=アラン・ミレールの最近の注釈も掲げておこう。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf)
より詳しくは、「超越的法/超越論的法」を参照のこと。