2017年2月3日金曜日

詩人中井久夫の離れ技

以下まずはネット上から拾った文(座談会「中井久夫に学ぶ」『中井久夫の臨床作法』2015所収)。

山中康裕)「先生は『僕は患者さんにはあまり訊かないし、しゃべらないし、黙っていることが多いんだよね』とおっしゃるのですが、それはまったく嘘です。」

「診察中に、隣の診察室の中井先生の声がうるさくて僕の患者さんの声が聞こえないので、先生もうちょっとしゃべらずに静かにしてくださったらいいのになあ、と思ったことが何度かあるのです。」

「そういう時に、診察が終わってから『先生、もう少し声のボリュームを下げて頂けないでしょうか』と申し上げたら、『山中くん、僕はしゃべっていないよ』と必ずおっしゃったのです。」

「あの時、僕が思ったのは、先生ご自身としてはしゃべっていないおつもりなのです。だけど独り言が出るのです。これは僕なりの考えなのですが、その独り言が患者さんにとってはすごくいいのです。ですからしゃべってはいけないという意味ではないのです。」

いやあ、すごい話だな

うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか。自分の行為の意味をいちいち意識する面接はたいていうまくいっていない。これは、自動車運転の初心者に起こることとおなじであろう。(中井久夫「統合失調症の精神療法」)

ーーということなのだろうか?

とはいえ次のような形に近いということも考えられる・・・

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

あるいは「詩人の「離れ技 tour de force」ということなんだろうか?

・私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)

・ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

(これは)たんなる詩の問題ではない。これは、意味の効果でありながら、また穴の効果でもある詩である。

意味とはシニフィアンの助けにて共鳴するものだ。しかし共鳴は十分ではない。それはむしろ穏やかだ。意味は共鳴を拭い去る。

意味は我々を眠りに誘う。詩も同じく。もし詩が意味から意味へと移行するなら。

眠りから覚めるのは、我々が理解しないときである。

この「新しいシニフィアン」--問題となっているのはシニフィアンの別の使用法であるーーが目を眩ます効果をもつ。そのとき意味の眠りから身を起こす。
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この強制するもの forçage が詩を通して作働する。

詩人の「離れ技 tour de force」は、意味を不在にすることである。le « tour de force » du poète est « de faire qu’un sens soit absent »(ミレール、2007ーーInterprétation, semblant et sinthome por ANNE LYSY-STEVENS)

《意味の効果でありながら、穴の効果でもある詩 c’est une poésie « qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou »》とあった。

ミレールによる穴の定義は次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ミレール派の Pierre-Gilles Guéguen は次のように記している。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF

※ララングについては、「中井久夫とラカン」を参照。

…………

※付記

――ここからすこしの間は頭の中の対話として述べたい。それは私の発想が在と非在との間をゆれ動いている時期をもっとも忠実に再現するものと思う。それはポール・ヴァレリーの『若きパルク』の冒頭三行である。

すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石〔ほしぼし〕とともにひとりある このひとときに ……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。

「パルクは深夜にめざめる。おそらく夜の半ばだろう。宇宙の地平に明滅するいちばん遠い星がいちばん近く感じられ、その他はすべて闇だというなかにめざめる。私が泣くという自己所属性の意識はない。すぎゆくひとすじのような風にまがう、かそかな泣き声。それは、誰の泣き声なのか。パルクはおのれを知らない。身体のほとんどはめざめていないのだから。しかし、あまりにわが身に近い。ほとんどわが身からのようではないか ……そんな意味であろう。運命の糸をつむぐのがギリシャ神話のパルクだが、このパルクは後の詩行でわかるとおり、おのれの運命を紡ぐ点てユニークなパルクだ。何の予兆とも知らされていないが、しかし、ほとんど現前するもののない世界だ。これは純粋予感だ。あるいは発生機状態in stato nascendi にある予感だ。」

「世界は、索引でもある。手近かにはプルーストだろうね。一枝のサンザシが、すりへった石段のふみごこちが、三つの塔の相互関係の視覚的変転が、紅茶にひたしたマドレーヌ菓子が、それぞれひとつの世界をひらく。「索引」とはいささか殺風景なことばだが、一見なにほどのこともないひとつの事象がひとつの世界に等しいものをひらくわけだ。」

「そう、たとえばアカシアの並木は私にはひとつの世界をひらく鍵だ。おさない時、私は宝塚市小林の聖心女学院の下にいた。その通学路のニセアカシアのかおりは、私の幼年時代をひらく魔法なのだ。こうやって開かれるものと、眼前にあるものとのあいだには、同一世界内の記号間の関係ではないね。記号は、ひとつの世界の一部であるのだから。」 (中井久夫「世界における索引と徴候」)

わたくしが中井久夫に最初に驚いたのは次の文だった。もう25年ほど前になるが。

往診して初めて解けた初歩的な謎がいくつもあった。たとえば、ある少女が、十年来、まったく眠れないと訴えつづけていた。また、傍らに魔女がいるとも。私は、外来でその謎が解けないまま、何年も診てから、友人に後を頼んで転勤した。しかし、二度目の転勤先に頻繁にかかってきた電話は、現主治医とともに往診することを私に決心させた。それは患者の希望でもあったが、私の心の中に謎を解きたいという気持ちが動いてのことだったのも否めない。

市営住宅の一つに少女の家はあった。父は去り、母と二人住まいであった。少女は白皙といってよい容貌に、二十歳を過ぎているとは思えないあどけなさを残していた。十歳にならないころ、まず母の診察に伴って私の前に現れ、次いで診療の主役となった当時の面影はほとんそそのままであったが、十年の閉じこもりが、そのうえに重なっていなかったわけではない。旧知の母は私を歓迎した。私たちは道に迷い、夜になっていた。豪雨であった。

十年の全不眠はありにくく、まして体重が減少しないでそうであるということはまずありえない。質問に応じて少女は頭痛と眼痛と脚の痛みとを訴えた。私は、脈をとった。一分間に一二〇であった。速脈である。これは服用中の抗精神病薬いよるものかもしれなかった。しかし、彼女はまったく気づいていない。私は舌を診た。ありえないほどの虚証であった。長年の病いは、「雨裂」と地理学でいう、雨に侵食された山の裸のような甚だしい裂け目を舌の実質に作り、舌の厚さは薄く、色も淡かった。それにしても脈は細く数が多い。私は脈を取りつづけた。少女は静かにしていた。私は、椅子にすわっている少女の前の床に座って、もう一方の手を足の裏にそっと当て、そのままじっとしていようとした。

なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部にふれることは危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。

時間がたっていった。母親が話しかけようとするたびに私は指を口唇にあてて制止した。私はこの家の静寂を維持しようとした。私は、ここまできたら、何かがわかり、少女が眠るまでは家を動かない決意をしていた。じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは両刃のやいばであって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。しかも、ふだん六〇である脈が倍になれば、ふつうならば坂道を登る時のような息切れがあるのに、今の私には、まったく何の苦痛もなかった。逆に時間の流れがゆっくりになった。眼前の時計の歩みの速さがちょうど半分になった。すべてが高速度写真のようにゆっくりし、すべての感覚が開かれ、意識が明晰になった。これはおそらく少女が日々体験しているものに他ならないものであった。何の苦痛もないことが奇妙であった。ふと私は身の危険を感じた。五十歳代の半ばに近づいており、循環器系を侵す病気を持っているーー。
感覚の鋭敏さの中で、私はガシャガシャガシャという轟音を聞いた。その轟音の音源はすぐわかった。母親が食事を作っている音である。力いっぱいフライパンを上下しているのだ。ついで鍋の中をかきまわす音。この音のつらさは、静寂の中で突然起こり、ほとんど最大限に達して、突然消えることであった。その耐えがたさは、静かな瀬戸内の島に橋がかかり、特急列車が通過する時に島の人が耐えられないと感じる、その理由と同じものである。それは、音の大きさの絶対値だけではない。それもあるが、さらに苦痛なのは絶対に近い静寂が突如やぶられる突発性である。静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当っているだろう)という認知に当っている。声の微細な個人差を何十年たっても再認し、声の主を当てるのが聴覚である。この微分回路は「突変入力」に弱いのである。ゼロからいきなり立ち上がる入力、あるいは突然ゼロになる入力のことである。その苦痛であった。

いま私は少女の状態に一時的に近づいている。私が耐えがたい轟音として聞いている、この台所仕事の音は、長年これを聞いている少女にはさらに耐えがたいであろう。突変入力がはいるたびに、少女の微分回路は混乱するにちがいなかった。「家にいる目に見えない悪魔」とは「突変入力」によるこの惑乱ではないかと私は仮定した。母親の側には突然最大限の力を出すという特性があり、少女には慣れが生じにくいという特性があるのだろう。それは不幸な組み合わせであるが、生活の他の面にも浸透しているにちがいなかった。

私は突然気づいた。眼前の掛け時計の秒針の音が毎分一二〇であることに。ひょっとすると、少女の脈拍は時計に同期しているのかもしれない。私はよじ登って時計をとめた。私は一家にしばらくこの掛け時計なしで過してもらうことに決めて、時計を下駄箱の中に隠した。

仮説は当たっていた。彼女の脈拍はしだいにゆっくりとなった。私の脈も共にゆるやかになった。母親は、別の部屋で主治医が相手になっていてくれるらしかった。

私は、あらためて思った。ある種の患者は、そのまったき受動性において、あらゆる外界からの刺激を粘土が刻印を受け取るように受け取るーー少なくともそういう時期があるということを私は指摘したことがある。私は、少女が時計の音にも脈が同期してしまう、まったき受動性において日常外部あるいは内部に発生する入力を処理している、いやむしろ一方的に受け入れているのではないかという仮説を立てた。解決方法は、入力の制限か、入力に耐えられるように少女に変わってもらうことだ。しかし、それは大変な問題である。差し当たって、少女が眠れれば、少なくとも、好ましいほうに何かが変わる可能性がある。母親にも本人にもある希望が、かすかにせよ、起こるかもしれない。

私の指圧は、この場合のとっさの行為である。このような未知数の多い状況においては、他の選択肢はすべて危険をはらんでいた。頭の指圧など、それだけで少女に破壊的であり、抗精神病薬なら、これまでに少女が大量に服用していないものはなく、いまさら処方するものはなかった。そして、それはそもそも主治医の問題であった。私は足の裏への軽い接触を続けた。この少女の病んできた膨大な時間の塊りの前で、それはほとんど無にひとしいが、ほかに方法は思いつかなかった。ことばも無力であった。「おりこうさん」的な返事しか返ってこないことを私は十二分に経験していた。

医学とは別に私は指圧を少しはできないではない。私の大叔父の一人は、若いころは放蕩者だったというが、私の知る晩年は、村外れの小さな家で、村人に灸を据え、指圧し、愚痴を聴く、一種の「お助けじいさん」であった。その老人の何かを私は受け継いでいるのかもしれなかった。しかし、鍼灸指圧の職業人ではない私は、通常一人か二人でへとへとになるので、ふだん患者の指圧はしないようにしている。後の患者を診る力がぐっと減るのである。

一時間半後、頭痛は去り少女は眠気を訴えた。いい眠けか、いやーな眠けかと私は問うた。いい眠けであった。私は「隣りの自分の部屋に行ってもいいよ」といった。少女はそっと部屋に滑り込んだ。頭痛などは筋緊張のせいであり、少女の筋緊張がゆるむのを先ほどから私は彼女の足の裏に感じていた。

ここで当然、母親が世話をやこうとした。当然といえば当然の行為であるが、私は、母親のいつもながらの、声帯をいっぱいに緊張させた声でこの一幕を台無しにしたくなかった。思いついたのは、釈迦が自分の出身部族を攻撃に来る王の軍隊の踵を二度めぐらせた、その方法である。私は、その部屋のまえで座禅を組んだ。われながら三文芝居と思ったが他に方法はあっただろうか。「悟り」を求めようとさえしなければ、まあ無念無想というのであろう状態に入ることはむつかしくない。外からみれば周囲の事物あるいは風景の一部になってしまうこととなろう。母親はさすがにたじろいだ。二十分も経ったろうか。隣室から寝息が聞えてきた。とにかく私は何かを達成したのだ。

しかし、問題は、よい残留効果を残しつつどのようにしてこの一幕を閉ざすかであった。私は、母親に、今日は少女を食事に起こさず、このまま眠らせて、明日も起こさないことを頼んだ。実際どれほど大量の眠りが溜まっていたことだろう。そして、掛け時計をしまったことを告げ、私の腕時計をとっさに渡してしばらくこれでやってほしいといった。母親は頷いた。そして、隣室に盛大に用意されている食事に誘った。

私は迷った。彼女は福祉の保護を受けている身である。せいいっぱいの献立であった。しかし、私の目的は母親ではなかった。母親とは当人である少女以上にここで親しくなってはならなかった。動きたく、世話をやきたい彼女を抑えて少女を眠らせつづけることに私はエネルギーを使いつつあった。食事は、当然、私の緊張をほぐし、母親とのいささか馴れ合いを含んだ関係を作るだろう。しかし、いただかなければ、母親がこの食事を捨てる時の気持ちは、索漠とした、受容されなかったという感情となるにちがいない。それは少女にどうはね返るだろうか。

結局、私は、合掌して真ん中のごちそうに象徴的に箸をつけた。そうして合掌したまま、後ろずさりに家を出た。主治医がいくばくかのことばを交して私の後を追った。

閉じ方がこうであってよかったのか、今も思い返すが、結論はまだ揺れている。私は、ある漢方薬を医師に勧めた。主治医にどう見えたかを聞くと「何か芝居がかったことをしていたとしかわからない」といい「しかし、あの家で静寂が二時間あったということはなかったでしょう。二時間の状況をあそこにつくり出したということですね」と答えた。

私はまだまだいろいろなことを語ることができるだろう。しかし、もはや語るには、私の内心の抵抗が大きすぎる。私が経験したことをすべて語るならば、それは、さすがに憚って、かつて公刊されたことのない、精神分析のほんとうの生の記録を公開するに等しいことになるだろう。むろん、その際に私の中で起こっていたこと、私のその都度その都度の仮説とその修正とを詳細に述べなければ、事態は、半面しか見えず、フェアでなく、また読む者を誤った方向に連れてゆくであろう。

ここで、精神分析においては詳細な記録とされるものが、往診においては単なるフィールド・ノート程度であることに注意していただきたい。個人は、抵抗のすえに初めて無意識の秘密をいくらか明らかにするが、家族、少なくとも危機にある家族への往診は、一挙に家族の意識を越えた深淵を明らかにする。しばしば、それは「見えすぎる」のである。(中井久夫「家族の深淵」1991年)