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2018年2月14日水曜日

「ソーセージ/蝦蟇口」問題

まず。前回冒頭に引用した、ラカンの若い友人ソレルスの文の続きを掲げる。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)

この文は、ジジェク組によって(意図されずに)分節化されている。

「女というものは存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男というものの定義は次のようなものになる――男は「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)
標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。

しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男は、ファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある堪え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。

《我々は、「無」と本質的な関係性を享受する主体を、女と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant (仮装としての女性性)とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)

ーー名高いヘーゲルのカーテンを(手元に邦訳がないので)雑に訳しておこう 。

内面世界を隠蔽していると思われている、いわゆるカーテン Vorhange の背後には、無しかない(見られるべき何ものもない nichts zu sehen ist)、もし我々がカーテンの背後に廻り込まねば。我々が何ものかを見うるとするためには。あたかもカーテンの背後に見られうるべき何ものかがあると想定するためには。
この全き空無 ganz Leeren は至聖所 Heilige とさえ呼びうるものだが、しかしながら、そこにおいては何かがありうる doch etwas sei(と思念される)。我々は、その空無の穴埋めをせねばならない es müßte sich gefallen lassen、意識自体によって生み出される、空想(夢想 Träumereien)・仮象 Erscheinungen によって。何としても必死になって取り扱わねばならない何ものかがあると考えるのだ。というのは、何ものも空無よりはましであり、空想Träumereienでさえ空無 Leerheit よりはましだから。

– damit also in diesem so ganz Leeren, welches auch das Heilige genannt wird, doch etwas sei, es mit Träumereien, Erscheinungen, die das Bewußtsein sich selbst erzeugt, zu erfüllen; es müßte sich gefallen lassen, daß so schlecht mit ihm umgegangen wird, denn es wäre keines bessern würdig, indem Träumereien selbst noch besser sind als seine Leerheit.(ヘーゲル『精神現象学』Hegel, Phänomenologie des Geistes)


ミレール曰くの《我々は、「無」と本質的な関係性を享受する主体を、女と呼ぶ。⋯⋯女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している》とは真の哲学的問いである、ーーそして、あの全き空無 ganz Leeren という至聖所 Heiligeにかかわるのは、「女」のほうが得手なのである。

ーーというわけで、「世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ」であり、「男たちは? あぶく」なのである。ファルスのあぶく。すなわち男は「自分が(象徴界に)存在すると信じている女」である。

このようにして「詩人」ソレルスの言葉はジジェク組によって見事に注釈されている。

だがなぜ男たちは自分が存在すると勘違いしてしまっているのか。

ーーもちろんファルスのせいである。

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。(ミレール、“El Piropo”)

ペニスとファルスの区別が不明瞭であったフロイトだが、1923年になってようやく(一応の)区別をしている(もっともその後もこの区別はそれほど瞭然としているわけではないが)。

・男性性 männlich は存在する。だが女性性 weiblich は存在しない。ここでの対照は、男性性器を持っているか männliches Genitale 去勢されているか kastriert の対照である。

・両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

よほど強調したかったのか、1909年に出版された少年ハンスの症例にても、同じ1923年に註が付されている。

性的発展の一時期のごく一般的な特徴は、…その時期がただひとつの性器、つまり男性性器しか知らないという点である。のちの成熟した時期と異なって、その時期にあるのは性器優位ではなく、ファルス優位である。

daß die Periode der Sexualentwicklung, in der sich auch unser kleiner Patient befindet, ganz allgemein dadurch ausgezeichnet ist, daß sie nur ein Genitale, das männliche, kennt; zum Unterschied von der späteren Periode der Reife besteht in ihr nicht ein Genitalprimat, sondern das Primat des Phallus.(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』1909年、1923年註)


なにはともあれ象徴的機能としてのファルスは、男性しかもっていない。これはだれもが認めなくてはならないはずである。

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function— を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象 a である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

なぜ象徴的機能を作ることができないのか。よく知られているようにソーセージ/蝦蟇口問題のせいである。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)

もちろんこのソーセージ/がま口は、おそらくフロイトの意図に反して、象徴的なものとして読まねばならない。

ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界・想像界・現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。この三幅対はチェスに例えると理解しやすい。チェスをやる際に従わなければならない規則、それがチェスの象徴的次元である。純粋に形式的・象徴的な視点からみれば、「騎士(ナイト)」は、どういう動きができるかによってのみ定義される。この次元は明らかに想像的次元とは異なる。想像的次元では、チェスの駒はどれもその名前(王、女王、騎士)の形をしており、それにふさわしい性格付けがなされている。…最後に、現実界とは、ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

ようするに生れたての赤ちゃんを象徴的ソーセージの有無で、「あ、男の子! あ、女の子だわ!」と判定するあなたがたは、いまだにファルス主義者であることを認めねばならない。

そして、ファルスは空虚、あぶくでありながら、《最も象徴的なもの le plus symbolique として選ばれた、と言いうる。というのは、(論理的)繋辞 copule (logique) と等価であるためである》(ラカン「ファルスの意味作用」E692、1958年)。

ゆえに、

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus 」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。

Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ラカン派では、象徴秩序はときにファルス秩序と呼ばれる。なぜか? まずなりよりも言語が「ファルスプラスーファルスマイナス」(ファルスー非ファルス)の差異システムとして出来上がっているためである。

これはいくらか分かりにくいだろうが(基本的にはソシュール起源)、最も初歩的なファルスのシニフィアンのひとつは、一人称単数代名詞「私」である。

たとえば中井久夫が次のように記すとき、意図せずにファルス秩序について語っているのである。

……「私」といい「世界」といっても、真実は「私/世界」という、不可分のものを指しているのである。それは、ウォーコップ/安永浩のいう意味における「パターン」である。不可分なだけでなく、「私」があって「世界」があるのであり、「私」という概念が「世界」に優先する。「非-私」として「世界」を定義することは可能だが、「非-世界」として私を定義できない。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

すなわち「私ー非私」とは、「ファルスー非ファルス」と一般化できる。

このファルスは主人のシニフィアンS1とも呼ばれる。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

※より詳しくは、 「喪われている「女性の主人のシニフィアン」」を見よ。

フロイトは初期からすでに、 《本源的に抑圧(放逐)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる》(Freud, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)と言っているのである。
ーーそして《女は、女にとっても抑圧(放逐)されている。男にとってと同じように。La femme est aussi refoulée pour la femme que pour l'homme.》(Miller J.-A., Ce qui fait insigne,1987 )

このフロイトの言葉は、現代主流ラカン派が「一般化排除 la forclusion généralisée」(参照)という用語で問おうとする、2018年の会議における中心命題とほとんど等価の発言である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert , 2018


英国ラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルは、熱心なフロイトの読みとして、次のように言っている。

私たちは、堪え難い現実から逃れるために、その発見者(フロイト)を批判するだけでは殆ど充分ではない。(Juliet Mitchell   Mitchell, Psychoanalysis and Feminism. London, Penguin Books, 1990, p. 299.)

ーーこういったことを書きうるのが「真のフェミニスト」である。

そしてこういったことがほとんど問われなくなってしまったのは、21世紀という時代の不幸であり、退行である。

・逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。

・根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)

たとえば中井久夫は21世紀に入る直前に次のように記している。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出)

もっともこう書く中井久夫でさえ、 《それ(性差)はあるのでしょうけれども、私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーというのは少し謎のままに置いておきたいですね》(「「身体の多重性」をめぐる対談」(鷲田清一との)、2003年)と言っているぐらいであり、《話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除》とは最も根源的な問いのひとつであるには相違ない。