私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)
⋯⋯⋯⋯
かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情 Eroberergefühl を、あの成功の確信 Zuversicht des Erfolges を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」1917年)
テキトウなことを書くが、建築家ってのは、ーー今、日本の名高い建築家の顔を数人思い浮かべているだけだがーーオッカサマに愛された人格の人が多いんじゃないかな。全能感人格ってのかな。
成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定されているような幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への同一化である。⋯⋯
もっとはっきり言うなら、成人の神経症の全能感は、幼児期における《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4)に回帰することである。その意味は、欠如なき母ーー最初期、子どもによってそう感受されるーーあの母との同一化である。(ポール・バーハウ、New studies of old villains、2009)
もっともこのバーハウの文は次のように続くことに注意しなくちゃいけないが。
パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳しく言えば、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖(Freud, 1931)である。(同バーハウ、2009)
ようするに次の側面があるから。
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?
それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
ラカンってのはどうみたってパラノイアっぽいからな・・・《女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ。》(ラカン S10, 1963, 摘要訳)
フロイトってのは終生「汽車恐怖症」だしな、家族で汽車旅行中、オッカサマの着替えを見てしまったーーどこまで見たのか、着替えだけだったのかについては種々議論があるがーー「幼少の砌の傷の固着」さ
なにはともあれ、フロイトの『夢解釈』ってのは、実は隠蔽された自叙伝だよ、
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
《メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.》(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ま、ラカンってのはこういうことばかり言っている人物だよ、だからオモシロイんだな、ボクは、だが。
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
…………
ああ、また話がひどくそれちまった、元に戻さなくっちゃ。
子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去 に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。
でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』)
で、作家ってのはーーこれは冒頭の続きだよ、だいぶ前だけどーー、これまた戦前のある時期の作家たちに限るが、オッカサマに突き放された記憶を持っている人が多いんじゃないか。くり返し強調しとくけど、今テキトウなこと書いてるからな。ボクには悪癖があるんだ、こういった思いつき観点で人を見てしまうっていう悪い癖がね(画家や音楽家ってのはバラバラで一般化できないな、今のところ)。
⋯⋯⋯⋯
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…
僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)
幼き春 折口信夫
わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛(メグ)まず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育(オフ)しぬ。
・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。
・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
・芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)
或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。
ーー芥川龍之介「闇中問答」
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。……
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。
十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。
二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。
二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。
四十四が精神病院入院の年。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語)
太宰治の自伝に、幼年期及び乳児期といいましょうか、それから、中学時代にかけて、太宰治の自伝的な小説があります。それは初期の作品でいえば、『思ひ出』と か、中期の作品でいえば、『新樹の言葉』という作品がありますけど。そういうのを断片的に拾い集めると、事実らしいものとして残ってくるものがあります。
それを、確からしいとおもわれることを、いくつかあげてみますと、ひとつは乳児の時にじぶんは乳母に育てられたので、 母親に育てられたことはないと言っているわけです。つまり、 母親になんのあれもないと言っています。父親に対してもそうなんですけど、じぶんは乳母におっぱいをもらって育てられた。
……つまり、これを母親に育てられなくて、授乳されたりしなくて、乳母と叔母に育てられたということというのは、太宰治が生と死というのを超えやすい資質をもっていたということに対して、たいへん、ぼくは重要なことだとおもいます。(吉本隆明『シンポジウム・太宰治論』1988年)
そのうち「そこのキミ」も、ボクの悪癖の餌食になるかもな、実名入りで書いちまうかもな。気をつけたほうがいいよ、キミ。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。(三島由紀夫「第一の性」)
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。…おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)