例えばラカン派専門家がこう言っている。
自閉症者には無意識がなく、その結果、一般的な自我を持つことができません。(向井雅明「自閉症について」2016年)
だから巷間の、若い「批評家」がこう言っいるてのもやむえないよ。
千葉雅也 いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)
僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。(『欲望会議』2018年)
だがこれらは、無意識という語の完全な誤用なのであって、「抑圧された無意識」しか視野に入っていない発言である。
松本卓也くんはウワッスベリのところがあるのは否定できないが(とくに「享楽」概念について)、最低限、上の発言のたぐいが「全き誤謬」なのはよく知っている筈だとボクは「評価」しているのでね。
さて先にかかげたポール・バーハウの簡潔明瞭な文を裏付けよう。
まずラカンはこう言っている。
ーーこれは後期ラカンによるフロイト無意識解釈における決定的な二つの文である。
たとえばセミネール22には次のような表現が頻出する。
………
フロイトの無意識には、「抑圧された無意識」とは別に「非抑圧的無意識」と訳せる語がある、ーー《抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw》(『自我とエス』)。後者をフロイトは原抑圧と呼んだが、実質的に「固着による無意識」である。
今、「居残り」と訳した”staying behind”は、フロイトに頻出するが、ここでは最も簡潔に表現されている文をひとつだけ抽出しよう。
「原無意識 primal unconscious」は、(『夢解釈』に現れる)フロイトの「夢の臍 Nabel des Traums」、あるいは「我々の存在の核」Kern unseres Wesen であり、それは決して表象されえない。しかし固着過程を通して、背後に居残っている staying behind。フロイトはこれを「原抑圧」と呼んだ。フロイトの夢の臍は、ラカンの欲動の現実界である。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001)
今、「居残り」と訳した”staying behind”は、フロイトに頻出するが、ここでは最も簡潔に表現されている文をひとつだけ抽出しよう。
リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
さて先にかかげたポール・バーハウの簡潔明瞭な文を裏付けよう。
まずラカンはこう言っている。
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
ーーこれは後期ラカンによるフロイト無意識解釈における決定的な二つの文である。
今かかげた文にある原抑圧は、次の二つのボロメオの環に示されている。
ラカンが原抑圧の穴と言っているのは、vrai trouのほうの穴のことであり、象徴界の穴のことではない。
この二つの穴(現実界)については、コレット・ソレールが次のように言っている内容である。
現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
たとえばセミネール22には次のような表現が頻出する。
・享楽は外立する la jouissance ex-siste (S22, 17 Décembre 1974)
・外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (11 Février 1975)
・原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (08 Avril 1975)
………
ここでフロイトに戻ろう。
フロイトには「原無意識」あるいは「リアルな無意識」と訳せる語がある。これは、ラカン派用語なら、現実界の無意識である。
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
ーー翻訳 Übersetzungとあるが、この語は初期からある。
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896年)
このフリース書簡に現れる抑圧は、通常の抑圧ではなく、フロイトの後年の用語では原抑圧である。
われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。…欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それは極端な表現形式を見つけ…いわば暗闇に蔓延る異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度 Triebstärkeの装いによって人をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
フロイトにとって抑圧された無意識とは、後期抑圧に過ぎない。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
確認のためにさらにバーハウの注釈を掲げよう。
フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。
システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」の基盤となる原無意識は、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)
そしてラカンは、通念となっているフロイトの無意識(=抑圧された無意識)との混同をさけるために、フロイトの原無意識を「言存在 parlêtre」と呼ぶようになったのである。
・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。
・言存在 parlêtre のサントーム(原症状・固着)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール JACQUES-ALAIN MILLER、L'inconscient et le corps parlant、2014)
ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
だがフロイト自身には、初期から二つの無意識があったのである。
ここまで記してきた無意識を図示すればこうなる。
この図の下に、たとえば「ラカン派の自閉症」で示した内容を含めて、ミレール2005のセミネール冒頭でしめされた図とともにそのままくっつけることができる(ここではエキス語彙のみ抽出)。
ここで記した内容を裏付ける引用は、「きみたちは途轍もなく間違っている」にもふんだんにあるが、そのなかから明瞭な二文を掲げておく。
『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。
最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。
つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…
現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
………
こうして現在の主流ラカン派では、21世紀は「原抑圧の時代」と呼ばれているのである。
最後のラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(もはや旧来の症状ではなく、サントーム(原症状)である)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないナマの症状である。…この原形式とは身体とシニフィアンとのあいだに遭遇にある。…
われわれは「フロイトの原抑圧の時代 the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung」にいるのである。ミレール は「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心理装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。そこにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)
この意味はエディプスの斜陽の時代、抑圧された無意識が剥がれ落ち、底にある「原抑圧=固着」、すなわち原無意識が露出した時代ということである。
………
※付記
以下、象徴界と現実界についての簡潔まとめ引用群。
象徴界
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象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
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言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
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欲望の主体 sujet de désirとは(実際は)幻想の主体 sujet du fantasmeのことである。(ラカン、AE207, 1966)
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欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (J.-A. MILLER, L'économie de la jouissance、2011)
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現実界
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現実界のトラウマの反復強迫
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問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ(=言語外、象徴界外)と呼ばれるものの価値を持っている le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)
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フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un-2/2/2011)
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「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」…これは、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
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ララングという現実界的シニフィアン
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私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」(=言語は仮象)と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
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ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから liée au corps à corps des premiers soins。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。
ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかしララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実は残ったままである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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サントームは、母の言葉に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
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ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
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症状は言語の側にありsymptôme du côté du langage、…サントームはララングの側にある sinthome du côté de lalangue。(Myriam Perrin interviewe Pierre-Gilles Guéguen, 2016)
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享楽(身体)という現実界
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享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
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身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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固着による欲動の現実界
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欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
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欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt (=欲動の固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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サントーム=固着という享楽
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分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験rein zufällige Erlebnisse der Kindheit が、リビドーの固着Fixierungen der Libidoを置き残すhinterlassen傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 講 「症状形成へ道」1916年)
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分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
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享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
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享楽は身体の出来事であるla jouissance est un événement de corps。…享楽(身体に出来事)はトラウマの審級l'ordre du traumatismeにある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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サントームという自閉的享楽(身体の享楽)
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自閉的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
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身体の享楽は自閉的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
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サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)g
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