(「女医肉奴隷」1986年) |
「女医肉奴隷」というのはWIKIにも項目があるくらいで、にっかつロマンポルノ末期の作品らしいけど、とってもいけるな、すくなくともこの瞬間ってのは。いまどきのAVでこんなにエロい映像ってあるんだろうか。
荒木経惟のお気に入りの写真、思い出しちゃったよ。
エロってのは現物がみえちゃだめなのさ、安吾やバルトが言ってるけど。
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。
ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。
やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
たぶんみんな裸になったら、たとえば痴漢電車なんてなくなるよ。
身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。
それはストリップ・ショーや物語的サスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
ああ、でも精神年齢高校生の連中だったらダメかもな。
見えない場 champ aveugle の現前(力動性)こそ、ポルノ写真からエロティックな写真を区別するところのものである、と私は思う。ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 objet immobile (フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真のイマージュにプンクトゥム(刺し傷)はない。そのイマージュは、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。
これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』「見えない場」)