父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
ーー後期ラカンの排除を考える上で、一つの核心的文である。前期ラカンの「父の名の排除」とは異なる排除ーーこの「他の排除(別の排除)」とは、何よりもまず「女というものの排除」あるいは「享楽の排除」である。
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除(女性性の排除 la forclusion de la femme)である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008[参照])
現代ラカン派ではこの排除を《一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée [Ⱥ]》(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)とも呼ぶ。
だが、ここではこの「女性性の排除」については可能な限り触れずに、より分かりやすい表現であろう「享楽の排除」に焦点を絞る。
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
ーー外立とは二重の意味をもっており、第一の意味として「外に放り投げる Verwerfung(排除)」でありながら、さらに外に放り投げられたものは、回帰するというもう一つの意味がある。排除という用語を理解する上ではむしろ後者のほうが重要である。これは、享楽という語を使っていえば、享楽回帰である。
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance (ラカン、S17、14 Janvier 1970)
「享楽の排除」、「享楽の外立」、「享楽回帰」は、それぞれ「現実界の排除」、「現実界の外立」、「現実界の回帰」と言い換えうる。
ここでもまた簡潔にラカン自身から三文を引こう。
享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, 17 Décembre 1974)
外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, 11 Février 1975)
そして享楽回帰(現実界の回帰)は次の文も示している。
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
ーー「書かれることを止めない」とは現実界の反復強迫のことである(フロイト用語ならエスの反復強迫=死の欲動)。
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ーーここでのトラウマは、心的装置に翻訳されない「身体的なもの」という意味である。
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(MILLER、L'Être et l'Un, 2011)
現実界がトラウマ界であることは後期も前期も変わりがない。
私は…問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (ラカン、S23, 13 Avril 1976)
さらに「享楽の排除」(身体の排除)、「享楽の外立」等は、「享楽の固着」とほぼ同義である。遠慮して「ほぼ」と記しておくが、わたくしの脳髄のなかでは完全に等置されている。
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ーー固着により身体的なものの残滓があり、それが反復強迫を生むのである。
以下のミレール文の「享楽の残滓 reste de jouissance」を「身体的なものの残滓」として読もう。
不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)
ミレール が言っているように「享楽の残滓」とは「リビドー固着の残滓」である。
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'être et l'un, 30/03/2011)
「一」とは欲動の原象徴界のシニフィアンのことであり。「S2なきS1」とも呼ばれる。
反復的享楽 La jouissance répétitiveとは中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'être et l'un, 23/03/2011)
この「 S2なきS1[S1 sans S2]」こそリビドー固着(欲動の固着)である。
ラカンは固着によってエスのなかに置き残される欲動を「欲動の現実界」と表現している。
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…
原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ーー原抑圧とは固着のことである(参照)。
「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」とは「欲動の身体 le corps pulsionnel」と言い換えうる。
欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
そしてこの固着による身体的なものの残滓が反復強迫を引き起こすのである。
固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
このリビドー 固着の残滓をフロイトは「異物」とも呼んだ。
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
この異物がラカンの外密=対象a(喪われた対象)である。
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
対象a は外密である。l'objet(a) est extime(ラカン, S16, 26 Mars 1969)
異物 (Fremdkörper =corps étranger)とは、「固着によってエスに置き残された身体的なもの」を示すので、「異者としての身体」とするほうが分かりやすいかも知れない。
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
固着=異物=対象aの注釈としては次のポール・バーハウ文が明晰である。
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。
フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
ここで発達段階的に図をしめしておこう(説明割愛)。享楽という語は次のような幾層もの構造をもっている。
これ自体、ポール・バーハウの次の図の示し直しにすぎないが。
ーーȺというのが穴であり、S(Ⱥ)がȺの《境界表象 Grenzvorstellung》(フロイト、1896)としてのリビドー固着(享楽固着)である。
ミレールの一般にはいくらか難解な注釈ならこうなる。
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance、 1999)
享楽自体、穴を為すもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
享楽の排除によって身体は穴が開くのである。これが「異者身体 Fremdkörper」発生の別の言い方である。
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
現実界は …穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。(Lacan, S21, 19 Février 1974)
ラカン派が享楽の排除あるいは享楽の固着というとき、人がみなもつ原症状としてのリビドー固着を主に示している。
だがフロイトがエスの反復強迫に思い至った始まりは、戦争外傷神経症である。
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)
したがって固着概念を捉える上で、地震被災者やレイプ被害者などによる事故の瞬間への固着とその反復強迫をまず想起したらよいのである。
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
この事故的「トラウマへの固着」をフロイトは幼児期に遡って「病因的トラウマへの固着」として一般化した。
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…
このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…
このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…
この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
中井久夫の次の文は「事故的トラウマ」と「病因的トラウマ」への固着による異物の発生をとても簡潔に示している。
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
幼児期に起こるトラウマへの固着の最も代表的なものは「母への固着」である。
女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
事実、乳幼児の身体から湧き起こる欲動のカオス、その奔馬を飼い馴らす最初の鞍を置くのは母もしくは母親役の人物に他ならない。母が身体の上への刻印=欲動の固着を徴づけるのである。
象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体 désormais mortifié を基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970)
前期ラカンはモノ=外密(異物)=現実界を母だと言った。
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
この母は文字通りとってはならない。母のイメージではなく、構造的な意味での母なる大他者である。そしてこの母なるモノが究極の享楽の対象であり、現実界である。
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)