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2019年9月3日火曜日

フロイトの欠陥:「自我理想と超自我」区分の曖昧さ

このところ何度か引用してきたフロイトの『集団心理学と自我の分析』(1921年)はとても面白い論文だが、注意しなくてはならないところはそれなりにある。

フロイトはその全論文において書きつつ思考している。したがってたとえばある時期にあることを言っても、そのあと違ったことを言うようになる。これはすべての書き手においても多かれ少なかれそうであろうが、フロイトにおいてはそれが甚だしい。それは精神分析創始者による宿命である。

おそらく『集団心理学と自我の分析』で一番注意すべきなのは「自我理想」概念である。この1921年の段階では「超自我」概念はない。

超自我概念は1923年の『自我とエス』の第3章で初めて提出される。第3章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)[Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)]」である。ここから「超自我=自我理想」と一般には捉えられてしまった。

フロイト自身のその後の記述においても、あきらかに超自我=自我理想と扱っている論文がある。

私は、明言を躊躇うのではあるが、女にとっての正常な道徳観のレベル Niveau des sittlich Normalen für das Weibは、男のものとは異なっていると思わざるをえない。女の超自我 Über-Ich は、われわれが男に期待するほど揺るぎなく、非個人的な、情動の源泉affektiven Ursprüngen の影響を受けないものには決してならない。(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)

ーー最晩年のフロイトに依拠して遡及的に言わせてもらおう。ああなんというおばかなフロイトよ、解剖学的女の超自我の不足だって? 女は超自我をふんだんにもっている。不足しているものがあるなら、自我理想である。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)

現代にいたるまでほとんどの論者におけるフロイトの超自我と自我理想概念の「混同」の不幸はすべてこういったところにある。この混同はドゥルーズもやっているし(参照)、最近では憲法超自我論の柄谷行人もやっている。中井久夫だってそうだ。

この超自我概念の把握においてメラニー・クラインはとてもエライ。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

母のおっぱいが超自我の核といったメラニー・クラインはとってもエライのである。

最初期からこう言ったラカンもエライ。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

フロイトやラカンが何を言ったのかについての詳細は、「「理想自我と自我理想と超自我」文献」を読んでいただくことにして、簡潔に図示すれば、自我理想と超自我の関係はこうである。





原初にあるエスを最初に飼い馴らすのが超自我(「前エディプス的母なる超自我 Surmoi paternel oedipien 」)であり、自我理想はその超自我をさらに飼い馴らす機能をもつ。もし自我理想を超自我という語を使って言えば「エディプス的父なる超自我 Surmoi maternel pré-oedipien」であり、これがラカンの「父の名」である。そして「前エディプス的母なる超自我」が、事実上の超自我自体である。この超自我を、ジャック=アラン・ミレールはラカンに依拠しつつ「母の名 le nom de la Mère」とも呼んでいる。

最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)

だが呼び方はどうでもいいのである。肝腎なのは次のことである。

…要するに、自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)

………

まずここまでが必ず把握しておかねばならないことである。以下にやや難解なことを記すが、いま上に記した前段階を十全に納得しておかないとイミフの記述であるだろう。

ラカン派にはI(A)とS(Ⱥ)というマテームがある。これが自我理想と超自我のマテームである。




我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S(Ⱥ)=超自我とある。後述するがS(Ⱥ)はエスの原初の飼い馴らし機能がある。そしてI(A)は、S(Ⱥ)ーーよわい飼い馴らし機能しかもたないエスの境界表象ーーのさらなる飼い馴らしである。




残滓aとは、ラカンの対象aであり、飼い馴らしがすべてうまくいくわけではないという意味での「飼い馴らしの残りもの」である。この残りものは、別名「去勢」と呼ばれる(参照)。

去勢は享楽の名である la castration est le nom de la jouissance 。…

父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は享楽の諸名のひとつである。Le nom du père métaphorise le désir de la mère[…], ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

ちなみにジャック=アラン・ミレールは次の図を示している。


NPは父の名、DMは母の欲望である。そしてDM≒超自我だとミレールは既にはやい段階で言っている。

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

 S(Ⱥ)とは穴Ⱥのシニフィアンということである。上図の「快/享楽」(「有限/無限」)は、「欠如/穴」とも呼びかえうる。いくらか長い引用になるが、後期ラカンを読む上での核心のひとつなので注釈引用をしておこう。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)


さて、飼い馴らし、あるいは飼い馴らしの残滓の話を確認しておこう。以下にあらわれる神経症的障害とはフロイトにとって全症状である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)

この自我による飼い馴らし機能のマテームS(Ⱥ)とはリビドーの固着(欲動の固着)のシニフィアンでもあり、aとはリビドー固着の残滓である。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

リビドー固着の残滓は享楽の残滓とも呼ばれる。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

享楽の経済においてファルス化されないものという表現があるが、これが超自我によっても、あるいは自我理想による「父の隠喩」によっても「飼い馴らされない=翻訳されない」残滓であり、エスのなかに居残る「原無意識」である(後述)。


話を戻して、象徴的同一化としての自我理想が「父の名」と等価であるあることは、これまたミレールが次のように注釈している。先ほど引用した文に《I(A)、つまり自我理想は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能がある。他方、S(Ⱥ)[超自我]はひどく不安をもたらす機能 がある》とあったことを思い出しつつ以下の文を読もう。

超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 ⋯ comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)

これはジジェクが比較的はやい時期から強調していることでもある(ジジェクは2004年に「私のラカンは、ミレールのラカンである」と自ら宣言している。その後にミレール批判はあるが)。

たいてい見過ごされているのは、自我理想 ego-ideal の崩壊は必然的に「母なるmaternal」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗social failure」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父の権威の失墜 decline of paternal authority」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。(ジジェク 『斜めから見る』1991)

「父の権威の失墜 decline of paternal authority」とあるが、ラカンから一文だけこう引用しておこう。

エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

上でジジェクーー1980年代後半、ミレールのセミネールに出席していたジジェクーーの言っていることは、たとえば次のミレール文のすぐれた翻訳である。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

わたくしの知るかぎりで日本ラカン派業界の不幸は、このあたりを現在にいたるまで十分に鮮明化していないことである。それはもちろんフロイト業界においてもさらにいっそうそうである。

………

いまどき次の図をナイーヴに注釈してしたり顔をしているのみのフロイト学者など、わたくしに言わせれば「知的抹消」の対象である。




フロイト自身、上の文でこのスキーマは十分でないから改良してくれと言っているではないか。

蚊居肢スキーマはこうである。




ーーこれは全面的にラカンのボロメオの環に依拠しているわけではないことを先に断っておこう。あくまでボロメオの環のフロイト観点からの利用である。

ラカンのボロメオの環において「a」と置かれる中心の場は(-φ)[去勢]とした。

私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

このスキーマをもって巷間のフロイト学者ラカン学者を知的銃殺刑に処する。

蚊居肢子は、日本的フロイト・ラカン共同体の学者たちの「なまぬるい言葉」、書評などにみられる「互いの無知の嘗めあい」を掠め読むだけで、どうしたってシュルレアリスト気分におそわれてしまうのである。

最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトン André Breton, Second manifeste du surréalisme)

………

かさねていくらか補っておこう。

超自我とはエスにたいする最初の飼い馴らしであり、エスの「境界表象 Grenzvorstellung」である(参照)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

超自我とはじつは原抑圧(固着)に関係する。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ここで《超自我の核は、母の乳房である》というメラニー・クラインの解釈は、「母へのエロス的固着が超自我の核」だといくらか言い直しておこう。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

だれが人生の最初期に幼児の行動を監視するのか? 母に決まっているのである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。……疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ここに母の乳房は、原ナルシシズム的リビドー備給の対象とある。じつは『集団心理学』にも次の記述がある。

私は「自我理想 Ichideal」を、自己観察、道徳的良心、夢の検閲、抑圧のさいの主要な影響力をその機能に帰した。それは、小児の自我が自己満足を得ている原ナルシシズムErbe des ursprünglichen Narzißmusの後継者である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

自我理想は母の乳房への固着、あるいは母への固着の後継者なのである。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

こうして最晩年のフロイトによってメラニー・クラインを補足すれば、彼女の解釈はみごとに正当化されることがわかるだろう。

ここでラカンおよびラカン派からも補っておこう。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

母への依存が母なる超自我の核なのである。これこそ原抑圧にかかわる固着である。

原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)

さきほど掲げた1933年の『新精神分析入門』の図をもう一度みてみよう。




この図における抑圧を原抑圧として捉えれば、超自我≒原抑圧としうることが理解されうるだろう。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

もう一度、蚊居肢スキーマを示しておこう。




ーーフロイトが新精神分析入門で先ほどの「自我-エス-超自我」のスキーマについて言ったように、「この図では十分ではないから、どうぞあなたがたが修正してください」と言っておいてもよい。


さて先ほど引用したフロイト1940に《超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する》とあったが、つまり超自我とは死の欲動の審級にある。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)

超自我≒原抑圧とは原無意識の審級にある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

………


ジャック=アラン・ミレールは、S(Ⱥ) =sinthome Σ としている。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)

上にみたように、 S(Ⱥ)=Surmoiでもある。したがってこれに依拠すれば、S(Ⱥ) =sinthome Σ=Surmoiである。これはどうしたってこうなる。

こうも言っている。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

欲動のクッションの綴じ目とは、欲動の固着、つまり原抑圧のことである。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

したがってS(Ⱥ)は超自我のシニフィアンであると同時に、原抑圧のシニフィアンでもある。




以上、一般にはかなり難解だと思うが、これをはずしてフロイト・ラカン理論はない。すべての核心は原抑圧=リビドーの固着(享楽の固着)である。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

穴、すなわち引力の核であり、すべてを呑み込むブラックホールである。

フロイトは、原抑圧 l'Urverdrängungを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

これこそ死の欲動の本源的な意味である。究極的にはどこに吸い込まれる欲動か?

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


※参照


リビドーの固着=享楽の固着
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'être et l'un, 30/03/2011)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation.   (J.-A. MILLER,  L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)