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2019年9月4日水曜日

傷ついたエロス=傷ついた享楽

愛、つまりエロスは原ナルシシズム的である。

愛Liebeは原ナルシズム的 ursprünglich narzißtischである。(フロイト『欲動とその運命』1915年)

フロイトの考えでは、母胎における母子融合状態が究極の原ナルシシズム状態であり、人は出生とともにこの状態を喪ってしまう。

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

ここでは母胎内における母子融合状態を「原エロス」と呼ぶことにする。

人にはこの原エロスを取り戻そうする運動がある。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)




出生とともにこの原エロスは喪われてしまうのである。ああ、なんとしても取り戻さねばならない。

エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがそれは不可能である。可能なのは母なる大地との融合(究極のエロス=死)以外にない。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

「原エロス primären Eros」をEと記すなら、出生はやばや E → Ɇ となってしまうのである。 そして Ɇ → E とは死しかないのである。

フロイトはこの原エロスの喪失を去勢と呼んだ。

去勢ー出産とは、全身体から一部分の分離である。Kastration – Geburt, um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt.(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
人間の最初の不安体験は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離を意味し、母の去勢 (子供=ペニス の等式により)に比較しうる。

Das erste Angsterlebnis des Menschen wenigstens ist die Geburt, und diese bedeutet objektiv die Trennung von der Mutter, könnte einer Kastration der Mutter (nach der Gleichung Kind = Penis) verglichen werden.(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


もっとも去勢は何種類もある。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為がそれまで一体であった母からの分離して、あらゆる去勢の原像であるということが認められるようになった。

Man hat geltend gemacht, daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte, daß er die regelmäßige Abgabe des Stuhlgangs nicht anders werten kann, ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. (フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) 

たとえばフロイトは母の乳房が原ナルシシズム的リビドーの対象だと言っている。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、第7章、死後出版1940年)


だが出産が原去勢であるのはかわりがない。

最晩年のラカンはこう言っている。

われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


原享楽とは原エロスである。これが出生とともに喪われてしまうのである。

例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)

ラカンはこの享楽の喪失を「廃墟となった享楽」とも表現した。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


あるいは控除されたリビドーとも呼んでいる。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

リビドーとはもちろん享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてリビドーとはエロスエネルギーである。

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

ラカン曰くの《リビドーは、不死の生 vie immortelleである》に戻ろう。この「不死」という表現自体、フロイト起源である。

生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる。die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte her…だが胚細胞は潜在的に不死である。die Keimzellen aber sind potentia unsterblich (フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)
フロイトは、胚芽germen、卵子と精子cet ovule et ce spermatozoïdeの二つの単位を語っている。…それはざっと次のように言い得る。この要素の融合において生じるものは何か?ーー新しい存在である。c'est de leur fusion que s'engendre - quoi ? - un nouvel être. だがこれは細胞分裂(減数分裂 méiose)なし、控除なしでは起こらない。la chose ne va pas sans une méiose, sans une soustraction…或る要素の控除la soustraction de certains élémentsがあるのである。(ラカン, S20, 20 Février 1973)

細胞分裂 méiose は本来、母胎内で受精したとき既に起こっているだろうが、ここでは細かいことは追求しない。蚊居肢散人の非科学的頭では「出生とともに喪われる」でよいのである。

別の場では、喪われた対象であるモノとは母であるとフロイトもラカンも言っている。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ああ、人はみななんという根源的去勢をされてしまっていることか! (もちろん動物だってそうだが、彼らは本能は喪われていない。人間にあるのは欲動だけである)。

去勢は享楽の名である la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

上のミレール文に示されたマテームを使用しつつ、さらに冒頭近くにかりにおいたɆ いうマテームを使用して、「傷ついたエロス=傷ついた享楽」図として次のように並置しておこう。






この生物学的相におけるエロス・享楽について、現在のほとんどのフロイトラカン派注釈者はあまりにも軽んじている(あたかもまるで理解していないようにさえ見える)。だがフロイトラカンの思考の根はここにしかない。それは、精神分析の領野を超えた、古代から綿々と続くエロスと死の思考のなかにある。

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう」"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節)
愛は死の欲動の側にある。l'amour est du côté de la pulsion de mort. (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)

フロイト・ラカンの「不死の生」を「永遠の生」として次のニーチェを読もう。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)

ここでリルケを引用してもよい。

天使たちは(言いつたえによれば)しばしば生者たちのあいだにあるのと
死者たちのあいだにあるのとの区別を気づかぬという。永遠の流れは
生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代を拉し、
それらすべてをその轟音のうちに呑み込むのだ。

Engel (sagt man) wüßten oft nicht, ob sie unter
Lebenden gehn oder Toten. Die ewige Strömung
reißt durch beide Bereiche alle Alter
immer mit sich und übertönt sie in beiden.

リルケ『ドゥイノ』「第一の悲歌」


最後にラカンに戻っておこう。

享楽は不可能である、…つまりエロス、すなわち「ひとつになる faire Un 」という神話が可能なのは、…死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要訳)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

あるいは、

欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

ーー享楽の漂流とは、上の二文からわかるように死の漂流(死の欲動)のことである。ラカンは享楽という語を種々の相で使っているが、上の文においては死=享楽である。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)

………

※付記

なおラカンはここで記した原享楽に相当するものを、セミネール9、セミネール10の段階では、Aという記号で示している。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)