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2019年7月15日月曜日

四種類のおとし物

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ  谷川俊太郎


フロイト・ラカンにおける去勢とはおとし物のことである。

⋯⋯⋯⋯

前回に引き続き、ラカンの最後の享楽定義文にこだわってみよう。

われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は何種類もあると言っているが、用語的にしばしば語られるのは、象徴的去勢と想像的去勢である。これ以外に現実界的去勢と呼びうるものがある。そして原去勢は、これまた言葉としてはフロイト・ラカンにないが、それに相当するものをこの二人は語っている。

ポール・バーハウはこの語を示している。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Does the Woman exist?, 1999)

ーーわたくしのお気に入りの文のひとつである。「原女主人=死」まであるところがすばらしい。ここではこの女主人がニーチェの表現する《わたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrin》と等価か否かは問わないまま、こう引用しておこう。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

話を戻せば、ジャック=アラン・ミレールでさえ、《死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.》(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)と明瞭には一度しか言っていない。しかも仏語ではなくニューヨークのワークショップにて、いかにも無理矢理強いられた様子で英語でのみ口に出した発言である(Acts of the Paris-New York Psychoanalytic Workshop,1988)。この話題は仲間内でさえ悶着を起こしやすいのである。

だがら死が享楽であることを語るラカン派はわずかである。この相においては、明瞭に繰り返し語っているのは、ほとんどバーハウのみだと言ってさえよい、《死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance》(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)

ラカンにおいてこの死≒享楽が最も鮮明に表れているのは次の文である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ほかにもたとえば時期の異なる次の二文をともに読めば、死を享楽として扱っているのは明らかである。


享楽の漂流=死の漂流
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語として「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


ーーくりかえせば、ラカンは種々のレベルの意味合いで享楽という用語を使っているが、いまかかげた三文においては、死は享楽なのである。


もっともこの死は去勢とは関係がない。去勢されていない享楽、それが究極の享楽=死であり、ニーチェの永遠の生である、《永遠の生 ewige Leben、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebens⋯⋯⋯死の彼岸、転変の彼岸にある生 Leben über Tod und Wandel hinaus。》(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)




この こそわれわれの帰るところである。


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー谷川俊太郎、六十二のソネット「41」


フロイト・ラカン派的に言えば、出生とともに「傷ついたエロス」ーー《傷ついた享楽 jouissance blessée》(ソレール、2011)-- にてわれわれは生きている。


リビドーと享楽
リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
ラカンは、フロイトがリビドーlibidoとして示した何ものか を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来や作用や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



さて細かく言えば、去勢は今しめした四つだけではないが、主要なものとしてはこの四つでよい。








各々の意味合いは次の通り。


去勢の基本的定義と対象a
去勢Kastration …とは、全身体から一部分の分離である die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen (フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン, S11, 1964)
象徴的去勢(言語による去勢)
去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique(ラカン, S17、18 Mars 1970)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
主人のシニフィアンS1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から「抑圧がある」と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S20, 13 Février 1973)
現実界的去勢(固着による去勢)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる。(ラカン、S23、11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
固着とは…、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe,  BEYOND GENDER, 2001年)
原去勢(出産外傷)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(対象a)を象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
想像的去勢
構造的与件としてある去勢を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとるのが「想像的去勢 castration imaginaire」である。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains, 2009)


ーーここに出現する、「対象a[objet(a) ]」やら「喪失 perte」やら「喪われた対象[objet perdu]」やら「去勢 Kastration」やら は、すべて「おとし物」と言い換えてよい。

とはいえ対象aはそのすべてがおとし物ではないことには注意。おとし物の穴埋めとしての対象aがあるのは、前回示した通りである。






享楽と剰余享楽(穴と穴埋め)
剰余享楽 le plus de jouir は…享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン, S17, 11 Mars 1970)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ[去勢] の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ところで固着を現実界的去勢と呼ぶのは一見奇妙にきこえるかもしれないが、ラカンにとって先ずあらゆるシニフィアンは享楽の原因なのである。

シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)

固着とは身体の上への刻印=シニフィアン(表象)でありながら、あらゆるシニフィアンと同様、それ自身とは一致しない。《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.》( ラカン、S14、1966)

これは古典的な話でもある。

AはAと同じではない[A nicht gleich A]。…もしAがそれ自身と同一なら [identisch mit sich selbst; A=A] 、…どうしてAを反復する必要があるのか?(ヘーゲル『大論理学(Wissenschaft der Logik』)

記憶のなかで凍りついたような外傷的静止画像という表象はなぜ反復強迫するのか。それは、ヘーゲルの言う通り、「AはAと同じではない」せいである。

初期フロイトはこの表象を《境界表象 Grenzvorstellung》と呼んだが、エスと自我のあいだの境目にある表象である。

この固着をフロイトはトラウマへの固着、無意識への固着と呼ぶようになる。

外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。…

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。…それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1916年)

晩年のフロイトの別の表現の仕方なら、リビドー固着 Libidofixierungen には常に残存現象 Resterscheinungen があり、身体の自動反復 Automatismus が起こる。ラカン的にいえば、この固着によって生じる身体的なものの残滓によって、それを取り戻そうとする(不可能な)享楽回帰運動が生じる。ようするに「おとし物回帰運動」である。

反復は享楽回帰retour de la jouissanceに基づいている。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuse への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

さらに現代ラカン派的に言えば、この固着とは、ミレールのいう《サントーム Sinthome =S2なきS1(S1 sans S2)=身体の自動享楽 auto-jouissance du corps 》 (L'Être et l'Un, 2011)であり、ここでの「S2なきS1」とはソレールのいう「連鎖外 hors chaîne」という意味である。

シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne (コレット ・ソレール Colette Soler、Lacan, l'inconscient réinventé, 2009)

こうして固着を現実界的去勢と呼ぶことができる。

⋯⋯⋯⋯

ヘーゲルの《AはAと同じではない[A nicht gleich A]》のAに相当するものついての使用例として、前期ラカンはーーラカンにおけるコジューヴ経由のヘーゲル期ーーに原去勢を暗示するだろう文がある。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

そして翌年のセミネール10では、Aは次のような使われ方をしている。




斜線を引かれていない享楽J、去勢されていない享楽はここにある。




なんでもおまんこなんだよ/(…)/おれ死にてえのかなあ(谷川俊太郎「なんでもおまんこ」)



欲動の目的地
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ーー《完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)