愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
スワンのオデットへの愛、マルセルのアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。あるいは小説家ベルゴットへの愛でさえも。
冒頭のドゥルーズ文は、『失われた時を求めて』に繰り返し出現する主要テーマにかかわり、たとえば最終巻の「見出された時」にはこうある。
バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。
またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)
《またしてもまんまとだまされたくはなかった》とあるが、人はことあるごとに騙されてしまうのだ。わたくしはこのところ安吾を読んでいるが、わたくしの安吾への愛は、安吾のなかにない、と常に疑わねばならないのに、ついうっかり忘れてしまう。
もっともプルーストは上にあるようにヴァントゥイユの作品という例外を語っている。これについてドゥルーズは、プルースト文にあらわれる非物質性(シネ・マテリア Sine materia)という語を取り出して注釈してはいる(参照:社交・愛・感覚・芸術のシーニュ)。真の芸術のシーニュは、愛する対象のなかにあると言えるのかもしれないが、それについてはわたくしはいまだ処理できていない(シネ・マテリア自体、後述のシミ=対象a=純粋差異ではないだろうか、と考えているところがある)。
一般にはドゥルーズがプルースト文を引用して記しているように「対象の鞘のなかの印象/己れ自身の内部にのびている印象」の後者が肝腎であるというのが、プルーストの「もう騙されたくはなかった」の意味合いである。
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。
我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
とはいえ、愛する理由は愛する対象のなかにはなく、己自身の内部にのびているもととするとき、その具体的なあり方は何か。
そのひとつの解釈としては、愛する理由は対象のなかに書き込まれているシミにある、という観点である。
プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)
このシミが人を動顛させ突き刺す(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。
ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
バルトが《指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない》と記していることに注目しよう。
たとえば誰かがわたくしの書いた「駄文」を愛するとする。だが彼(女)がわたくしの文を愛する理由は、わたくしの書いた文の内容では直接にはない。たまたまわたくしの書いた文に、彼(女)を触発するシミが書き込まれていて、《小さな震動》をもたらした、という側面が十分にありうる。おそらく、わたくしの駄文という「石鹸の広告」にパスカルの『パンセ』を読んだのである。
われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)
ラカン派的にいえば次の通り。
・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.
・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。
・眼差しは外部にある le regard est au dehors…私は眼差される je suis regardé、すなわち私は絵である je suis tableau…私は写真に写される je suis photo, photo-graphié(ラカン、S11)
《主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。》(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)
いま引用したラカン文をムラデン・ドラ―がたくみに注釈している。ようするに愛を抱く対象には、主体が刻印されているのである。これを「表象は非全体 pas-tout」と言っている。
写真の動きが、視野の主体に宿っている。人は視野の領野において、写真を写す主体として己れを孤立化しうる以前に、あたかも人は写真に写されている。人が視野のなかで、写真に写され、掴み取られ、捕獲されるそのあり方、それは写真のなかに斑点、染み、歪みとしての徴を残す。すなわち眼差しという不透明なスクリーンである。
ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を所有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。
染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代理は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pas-tout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。
ここにはショート short-circuit がある(したがってまたラカンの名高い聖典的公式《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》がある。すなわち、表象を、徴示的連鎖と無限への換喩に内在的な固有のものにする。この公式の決定的カナメは、主体は代理された何かとして重要な役割をなすということであり、一般に考えられているように、主体の代わりに何かが代理されるということではないことである。)
ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf)
…………
※付記
シミが鑑賞者を眼差していることに気づかないことは大いにありうる。
視野においてはすべてが、二律背反的な二つの項がある。
①物 choses の側には眼差し regard がある。すなわち、物が私を眼差す regardent。
②私にはそれらの物が見える voir。
聖書においてしきりに強調される、《彼らは、見えないかもしれない眼をもっている Ils ont des yeux pour ne pas voir》という言葉は、この意味で理解されなければならない。
何が見えないかもしれないのか Pour ne pas voir quoi ? それはまさしく、物が私を眼差している les choses me regardent ことである。(ラカン、S11、11 mars 1964)
プルーストには、自らの作品の役割は、読者が己れを読むことにあるとする、とても美しい文章がある。
私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。
本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
そしてこの文のすぐれた注釈としてドゥルーズ文をも掲げる。
プルーストにおいて新しいもの、マドレーヌの永遠の成功、永遠の意味作用にしているものは、単に忘我や特権的瞬間の存在ではない。文学には、そのような特権的瞬間の例が無数にある。それはまた、プルーストがそれらの瞬間を提示し、彼の文体の中で分析する独創的なやり方だけでもない。むしろそれはプルーストがそれらの瞬間を生産するという事実、そしてそれらの瞬間が、文学機械 machine littéraire の効果になるという事実である。
そこから、『失われた時を求めて』の終りの部分で、ゲルマント夫人の家において、反響 résonances が増大するとこになる。それはあたかも文学機械がその完全な体制を見出すかのようである。もはや、文学者が報告したり、利用したりする超文学 extra-littéraire 的な経験が問題なのではなく、文学によって生産される芸術的実験、文学の効果が問題である。ここで効果というのは、電気的効果とか、電磁的効果とかいう意味での効果である。(… )
芸術が生産するための機械であるということ、そして特に効果を生産するための機械であることについての、プルーストは、最も生なましい意識を持っている。ここで効果というのは、他人に対する効果である。なぜならば、読者または観客は、彼ら自身の内部と外部に、芸術が作品が生産しえたのと似た効果を、発見しようとするからである。《女たちが街を通りすぎて行くが、昔の女とは違っている。なぜならば、彼女たちはルノアールだからである。それは、昔われわれが女たちであると見るのを拒否したルノアールである。馬車も、水も、空もルノアールである。》 プルーストが、自分の書いた本は眼鏡であり、光学機械 instrument d'optique だと言うのは、この意味においてである。
プルーストを読んだあとで、彼が記述する反響に似た現象を体験したなどというおろかなまねをする痴者 imbéciles は大ぜいはいないし、また、そのような体験が、記憶錯誤症・記憶喪失症・記憶過多症のケースではないかと自問するようなペダンティックな者 pédants も多くはいない。プルーストの独自性は、この古典的な領域に、彼以前には存在しなかったメスを入れ、操作を導入した点にある。しかし、単に他人に対して生産された効果だけが問われるのではない。芸術作品こそが、それ自体の内部で、またそれ自体に対して、それ固有の効果を生産し、それによってみたされ、それを養分とするのである。芸術作品は、おのれが生む真実を養分とする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
…………
※追記
ジジェクの解釈においては、対象aあるいはシミとはドゥルーズやラカンの「純粋差異」のことである(参照)。
……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。
したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。
ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。
諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、私訳、原文)