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2019年7月30日火曜日

日本社交界のラカン派ドゥルーズ派諸君に命ずる!

最近になってもラカン研究者プロパのなかでさえ「ボク珍のラカンはアンコールまでのラカン」とか言っている人物がいるらしいが、そんな輩はラカン派ではまったくない。

なぜなら中期ラカンは「道に迷った」のだから。フロイトの道を踏み外したのである。たぶん不安セミネール直後におこった「破門」のせいもあろうから、ラカンに対しては情状酌量の余地はたぶんにあるが、21世紀のラカン研究者には情状酌量の余地はまったくない。今後いっさい戯言系の書物など出版しないことを蚊居肢散人は命ずる!

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)

ーーミレールは「道に迷った」と口に出したあと、即座に否定しているが、フロイトの『否定』論文の定義上、「中期ラカンは道に迷った」が本音である。それを意図してミレールが2006年の段階でああ言っているのは、後年の発言をみれば明らかである→「女性の享楽簡潔版」。

ミレールの言っている不安セミネールの「身体」の核心のひとつは、最近何度か掲げている次の文である。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では、投影されず ne se projette pas、備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上還元されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(Lacan, S10, 05 Décembre 1962)

この文の前には次の二つの図が示されている。



下図に「自己身体 corps propre」とあるが、ようするに究極の「自己身体」は去勢されているのである。

で、これが後期ラカンーーアンコールの最後から始まる後期ラカンの鍵である。



四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

サントーム=原抑圧の穴は《どんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale》とあり、セミネール10では《(-φ)は、これ以上還元されない irréductible》とある。

あとは去勢(-φ)と穴trouは同じかどうかを問えば、一丁あがりである。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

ーーおよろしいでしょうか? 去勢は穴です。身体には去勢の穴があるのです。

身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
穴ウマ=トラウマ troumatisme (ラカン, S21, 19 Février 1974)

ミレール注釈ではご不満の方々のために、「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」でながながと引用した文の一部を抜き出そう。


原ナルシシズム: 去勢された母なる自己身体を取り戻す運動
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


前期フロイトから「自己身体」という語は頻出するが、ここでは最晩年のフロイトからもうひとつだけ引用しておこう。

われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

これらは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

ーーああ、ここにも「ナルシシズム的屈辱」なんてあるよ、ボクは見逃してたけど。

ようするに原ナルシシズムとは母なる身体を取り戻す運動、究極的には出生によって去勢-分離されてしまった母胎と融合しようとするエロス運動である。これを自体性愛(=自己身体エロス欲動)、自己身体の享楽、自閉症的享楽等々と呼ぶのである。

よく知られているように(?)、エロスとは死の欲動である(参照:死への道は愛である)。これはすこし考えてみれば当たり前である。フロイトのエロスとは融合である。母なる大地と融合するのが究極のエロスであり、それは死である。だがこの当たり前のことさえ日本フロイト派・ラカン派のボク珍たちはいまだ認知していない。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


さて以下のフロイト・ラカン派語彙群はすべて同じ意味である(遠慮してほぼ同一といっておいてもよい)。



上段は、固着による無意識のエスの反復強迫(あるいは上に引用したトラウマへの固着とその反復強迫)であり、下段のラカン派語彙は、サントーム(原症状)のことである。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ーー「自動反復 Automatismus」とは言葉の成り立ち上、「自己身体機械」のことでもある。たとえば「自閉症 Autismus」は、ギリシア語のautos-(自身)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。

この固着による自身機械=反復強迫が、ラカンのサントームであり、自己身体の享楽、自閉症的享楽なのである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、…反復的享楽La jouissance répétitiveであり、…S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)

というわけで一丁あがりである。

原無意識(現実界的無意識)について」で引用した次の文を再掲して念押しおいてもよい。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ここで確認しておけば、固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されないことで、この心の外(言語外・象徴界外)にあるものをフロイト・ラカン派ではトラウマ=現実界と呼ぶ。そしてこれが身体の自動反復をもたらす。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマtraumatismeと呼ばれるものの価値を持っている(Lacan, S23, 13 Avril 1976)


さらに怒涛の引用癖のある蚊居肢散人は、身体の自動機械のようにして、--あるいはエロ画像を貼り付けるようにしてーーこう引用しておいてもよい。


永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

「備給Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい。(フロイト『無意識』1915年)



………

ところでである。

まず「欲望機械という倒錯機械」で1960年代後半のドゥルーズの仕事から列挙した文からここではエキスのみ抜き出そう。


固着によって強制された運動の機械
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年


冒頭の文にあるフロイト用語「Automatismus(automatisme)」 は先ほど示したように「自己身体機械(自身自動作用)」とも訳せる語で、ラカン派用語では自閉症的享楽でもある。

すなわちドゥルーズの「強制された運動の機械」とは自閉症的機械のことである!

最近「ドゥルーズと自閉症」なる研究会があるらしいが、この観点をぬかしたオベンキョウカイなら即座に罵倒の対象である。蚊居肢散人の口から火が吹くのである。オワカリダロウカ?

そもそも欲動は自閉症的なものである。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ーーこの文は、完全にラカンの考えに則っている(参照:ラカン派の自閉症)。

「欲動は自体性愛的 autoerotisch」だということは、「欲動は自己身体エロス欲動」だということだ。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

で、自閉症概念創出者のブロイラーは「自閉症≒自体性愛」だと言っている。

自閉症が自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものであるAutismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. 。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムLibido und Erotismusは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。(ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)

だから、DSMの自閉症ではなく、起源としての自閉症概念を受け入れるなら、「欲動は自閉症的」「享楽は自閉症的」だということだ。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

で、フロイトの欲動の最後の定義は次のもの。

欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ようするにこういうことだ。



で、これはニーチェが言っていることの言い換えである(参照:人はみな自閉症である)。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)

「ドゥルーズと自閉症」の諸君! ニーチェをはずしてはけっして本源的な意味での「自閉症」を語れません。オワカリダロウカ?

自閉症の究極の定義とはツァラトゥストラのグランフィナーレ「酔歌」にあるのをご存知ないのでしょうか?


ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年
静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが?  あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?  
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -  

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!  

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!   第3節


以下続きは→「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」の末尾をごらんなされたし(どうせみないだろうけどさ)。

そもそも厳密に言って、晩年のフロイト読解からえたラカンの洞察とは、人の起源には「自閉症」(=自己身体状態 [エス])があり、その自閉症からどうやって非自閉症的人間になるか、というものである。

この非自閉症的になる手段のひとつが晩年のラカン用語では「妄想」である。

ジャック=アラン・ミレールは妄想の底にはトラウマがあるといっている。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)

このトラウマとはラカン用語では穴であり、かつまた去勢であるのは上に示した。ようするに自閉症的享楽とは身体の穴のまわりの循環運動である。ジャック=アラン・ミレールが《去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である》(Introduction à l'érotique du temps、2004)あると言っている真意はこれである。

というわけで、やめといたほうがいいんじゃないか、「ドゥルーズと自閉症」研究会の諸君! 中止しろよ。20年ぐらいはやいよ。マツタク程度をいれても役に立たないよ。彼はまだ若すぎる。フロイトが真のフロイトになったのは1920年64歳以降である。真のラカンは1973年72歳以降である。そして蚊居肢散人のみるところコクブンくんは知的にはゼロだな、彼には生徒会長ぐらいのまとめ役が適任である。ゼロとはシツレイな! ま、甘すぎるということである。自閉症を問うなら、まずスピノザ研究者として次の文を想い起こさねばならないのに、うわさによればその気配が毛頭ない。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、蚊居肢散人の知るスピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」とである。

以上、ここでも蚊居肢散人は命ずる!

ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読んでからだな、可能なのは。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版 1970年)

………

ま、ここまでは言いすぎだといっておいてもよろしい。

だが一番肝心なのは、DSMなる「自閉症スペクトラム」の「自閉症」を基盤にして自閉症を語らないことである。

少し前に引用したが、DSMの自閉症ってのは徴候群(シンドローム)なんだから、《すべてを始めからやりなおさなければならない》に決まってんだろ?

マゾッホを一行でも読んでみれば、彼の世界がサドの世界とまったく無縁のものだとすぐに感知できる。(……)問題視されているのは、サド=マゾヒスムと呼ばれる単位性そのものなのだ。医学には、徴候群 syndromesと症状 symptômes の区別がある。すなわち症状とは、一つの疾患の特徴的な符牒 signes spécifiques d'une maladieであるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。…われわれはサディストとマゾヒストが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまったのである。すべてを始めからやりなおさなければならない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳ーーただし「症候 symptômes」を「症状」に変更)

したがって最低限、DSMなる最悪の精神医学マニュアルを叩き潰すことが「ドゥルーズと自閉症」研究会の目標にしていただきたい。これこそ真に蚊居肢散人は命ずる!



DSM(精神障害の診断と統計のマニュアル)批判
1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』2005年)
医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年)

DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011年)
英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)


これは蚊居肢散人によるボウヤたちのために親身になった妥協策である。あの諸君たちには、ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読むなどということはまったく不可能であるのは最初から知っている。

したがって最低限の仕事は、DSMという屑を崩壊させることとなる筈である。

精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。(⋯⋯)

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007ーー時代の病「DSMと自閉症」

「ドゥルーズと自閉症」の研究会諸君がかじっているらしい、たとえばトゥルニエ論の孤島のロビンソンやらルイス・キャロルやらが自閉症的なのはあったりまえなのである。創造的退行を旨とする詩人たちはすべて自己身体に向かう自閉症者である。それでなかったら本来の詩人ではない。詩人とは身体の穴に敏感な種族である、ーー「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

詩の吐露 Le dire du poèmeは、…「言語という意味の効果 effets de sens du langage」と「ララング(=母の言葉のリトルネロ )という意味外の享楽の効果 effets de jouissance hors sens de lalangue」を結び繋ぐ fait tenir ensemble。それはラカンがサントーム(=自閉症的享楽)と呼んだものと相同的である Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome。(コレット・ソレール Colette Soler、Les affects lacaniens、 2011)

ララングとはきみたちドゥルーズのリトルネロだよ、 《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

で、すぐに思い出さなくっちゃな。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

問いはむしろ学者センセたちはなんであんなに非詩的、非自閉症的でニブイんだろう、ということである。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

………

すこしまえにもうこの自閉症の話をやめにする、と記したところだが、どうも消化不良で腹具合がよくなかったのである。この文はすかしっ屁のようなもんである。8月以降はすっきりしてエロに専念したいものである。