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2019年7月27日土曜日

原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性

以下、ちょっと長くなってしまったな、最近、ひとつの引用をすると、芋づる式に次の引用が浮かび、いかにそれをカットするかに苦心するのだが、つまりはこの文はカットしきれていない投稿である。

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「原ナルシシズム primären Narzißmus」と「原マゾヒズム primären Masochismus」は、事実上ほとんど同じ意味合いをもっている。ネット上で検索するかぎりでだが、世界的にもまだ誰もジカにはそう言っていないので、これは世界初の提示デアル・・・

もっともラカンは既に《すべての欲動は実質的に死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort》(E848、1966年)と言っている。原ナルシシズムも原マゾヒズムも欲動であり、この視点から言えば、二つの概念の近似性などというものは当たり前すぎて敢えて言うまでもないことかもしれない。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

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歯痛や空腹で生じる自閉症」と「死への道は自閉的享楽である」にて、「自閉」語彙を使しつつ、「原ナルシシズム」について記したが、まずここでは、そこでのエキス文を再掲しておこう。


原ナルシシズム: 去勢された母なる自己身体を取り戻す運動
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)



ようするに原マゾヒズムとは母なる身体を取り戻す運動、究極的には出生によって去勢-分離されてしまった母胎と融合しようとするエロス運動である。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

他方、原マゾヒズムはどうか。まずフロイトの1920年以降における転回をしめす文を掲げる(フロイトは、1919年の『子供が叩かれる』までは、サディズムが先行してあるものと捉えていた)。


原マゾヒズム(一次マゾヒズム)と二次マゾヒズム
自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)



ーー原マゾヒズムとは自己破壊運動であり、これがサディズムに先立つ原欲動(死の欲動)なのである。

ここで先に言っておかねばならないのは、巷間の先入主とは異なり、エロスとは死の欲動の側にあることである。

愛は死の欲動の側にある。l'amour est du côté de la pulsion de mort. (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)

ーーよりくわしくは、「死への道は愛である」を見よ。


以下、フロイトとラカンの「原マゾヒズム」の記述を並べてみよう。


原マゾヒズム
フロイト
ラカン
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な(=受動的な)意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7,  16 Décembre 1959)


見てのとおり、原マゾヒズムとは母なる穴に吸引される自己破壊運動である。

前期ラカンの表現なら、女陰の奈落へと呑み込まれる不気味な運動である。




女陰の奈落
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(Lacan, AE573, 1976)
現実界には 「性関係はない il n'y a pas de rapport sexue」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。(Lacan, S21, 19 Février 1974)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、母なる鰐の口 boucheのあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)

こう引用すれば、もはや注釈は無用であろう。

原ナルシシズムと原マゾヒズムはどちらも「母胎への道」なのである。


死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



前回も示したように究極の母胎回帰とは、母なる大地との融合である。融合とはエロスのことである。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)


人はみな母胎回帰運動の反復強迫が備わっているはずである。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

………

というわけだが、なぜかここからニーチェの引用が始まる。これをカットするのは、ニーチェ主義者の蚊居肢散人にとってどうしても忍びがたい。


ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年
静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが?  あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?  
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -  

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!  

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!   第3節
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう」 そうおまえは語る。

"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" so redest du. 

享楽は相続者を欲しない、子どもたちを欲しない、ーー享楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同ーだ。Lust aber will nicht Erben, nicht Kinder, - Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.  第9節
おまえたちは、かつて享楽にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」を言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。ーー

ーーおまえたちがかつて「一度」を二度欲したことがあるなら、かつて「おまえはわたしの気に入った。幸福よ、利那よ、瞬間よ」と言ったことがあるなら、それならおまえたちはいっさいのことの回帰を欲したのだ。

ーーいっさいのことが、新たにあらんことを、 永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、ーー

ーーおまえたち、永遠な者たちよ、世界を愛せよ、永遠に、また不断に。痛みに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言え。すべての享楽はーー永遠を欲するからだ。
Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -  

- wolltet ihr jemals Ein Mal Zwei Mal, spracht ihr jemals "du gefällst mir, Glück! Husch! Augenblick!" so wolltet ihr _Alles_ zurück!  

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, -  

- ihr Ewigen, liebt sie ewig und allezeit: und auch zum Weh sprecht ihr: vergeh, aber komm zurück! Denn alle Lust will - Ewigkeit!  第10節
Es, Libido, Lust, jouissance
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…

(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)
学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求 Bedürfnisses の感覚と同時に満足 Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1888年)