Autoerotismus(自体性愛)とAutismus(自閉)は、ギリシア語のautos(自身)という接頭語を持っており、それぞれそのまま訳せば、自体性愛は「自身エロス」、自閉は「自身状態」であり、殆ど同じ意味である。後者のAutismusは、autos-(自身)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。
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フロイトにおいての自体性愛≒自閉症は、以下に示すが、最も基本的には、歯痛や空腹のときに生じる症状である。ようするに他人のことなどどうでもよくなる症状である。もちろんこれだけではないが、ベースはここにある。蚊居肢散人はマガオでそう言うのである。DSMの自閉症は蚊居肢子にはムツカシクってわかりません。
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自体性愛≒原ナルシシズム≒自閉症
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愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
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自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nenn。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムLibido und Erotismus は、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。 (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)
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ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉的と呼ぶだろう。narzißtischen ― Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
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自体性愛=自己身体エロス(自己身体享楽)=自閉的享楽
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自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
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フロイトによる「パートナーなき自己身体の自体性愛的享楽」は、私が自閉的症状と呼ぶものの最初のモデルである。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)
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自閉的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
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器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心 libidinöse Interesse を自分の愛の対象 Liebesobjekten から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。
このような事実が月並みだからといって、これをリビドー 理論 Libidotheorie の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給Libidobesetzungenを彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。
W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我の関心 Libido und Ichinteresse とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
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(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。…
このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。
ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)
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→続き:死への道は自閉的享楽である