このブログを検索

2019年7月31日水曜日

私は詩人に飽き飽きした

詩人ツァラトゥストラは「詩人は嘘をつきすぎる」「詩人に飽き飽きした」と、詩を以て言っている。

詩人は嘘をつきすぎる。…

詩人のうち、酒の偽造をしなかったものがあろうか。……

感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然がかれらに惚れこんだのだと。……

ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう。……

わたしは古い詩人、また新しい詩人に飽きた。わたしにとってはかれらのすべてが、表皮であり、浅い海である。 かれらは十分に深く考え抜いたことがなかった。それゆえかれらの感情も、真に底の底まで沈んで行ったことがなかった。……

ああ、わたしはわたしの網をかれらの海のなかに投げ入れて、よい魚を捕えようとした。しかしわたしの引き上げたものはいつも、どこかの古い神の頭であった。……

わたしから見れば、かれらは十分に清らかではない。かれらのすべては、自分の池が深く見えるように、それを濁すのである。……

たしかに、詩人の内部に真珠の見いだされることはある。それだけに、詩人自身はいよいよ殻の硬い貝類である。そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした。……

かれらはさらに海から虚栄心をも学び取った。海は孔雀のなかの孔雀ではなかろうか。……

まことに、詩人の精神そのものが孔雀のなかの孔雀であり、虚栄の海である。(ニーチェ「詩人」『ツァラトゥストラ』第2部1883年)


この態度が最も大切なことである、と蚊居肢子はいうーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう![Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! ]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「創造者の道」1883年)

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)
やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。

おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、……

よこしまな贋金造りよ、おまえにはほかにしようがないのだ。おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。…

おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ。(ニーチェ「魔術師」『ツァラトゥストラ』第4部、1895年)


よく知られているように、《人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである》(プルースト「ソドムとゴモラ」である。

芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的なもののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。…

わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう![verleumden wir die Melodie!]  美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない![Nichts ist gefährlicher als eine schöne Melodie! ] それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない![Nichts verdirbt sicherer den Geschmack! ](ニーチェ『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡、1888年)

ニーチェ主義者バタイユもこう言っている。

私はポエジーに接近する。しかし、ポエジーに背くために(ポエジーを失敗させるために)。Je m'approche de la poésie: mais pour lui manquer ……

ポエジーの非意味の水準に昇華していないポエジーとは、たんに空虚のポエジー、美しいポエジーに過ぎない。La poésie qui ne s'élève pas au non-sens de la poésie n'est que le vide de la poésie, que la belle poésie (バタイユ『詩への憎悪 La Haine de la poésie』)

美しいメロディ、美しい詩など「美しくない」のである。そんなものはニブイ者あるいは馬鹿以外はすぐ退屈する。

だが「非意味 non-sens」とは何か? バタイユの言いたいこととはいささか反するかもしれないが、蚊居肢子に言わせれば、なによりもまずリトルネロであり、ララングであり、音調であり、言葉のモノ性である。


リトルネロ  、ララング 
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもの Ewig-Geschiedenemのあいだの虹、仮象の橋 Regenbogen und Schein-BrückenScheinではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調 Töne を発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年)
言葉のモノ性
ララングは意味のなかの穴である…現実界の症状は、「言葉のモノ性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。一つは肉体をもたない意味 sens qui est incorporel ともう一つは言葉のモノ性 matérialité des mots (ララング=母の言葉)である。(Pierre-Gilles Guéguen,  Parler lalangue du corps,  2016)
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


たいせつなのは、オッカサマの言葉です。とくに母胎にいるとききいたあの声です。これこそ詩の起源です。意味過剰の三文詩人たちよ! 美女以外は許しません。