このブログを検索

2019年7月19日金曜日

欲望機械という倒錯機械

二種類のサントームについて」で、ラカンの原症状としてのサントームは固着(原抑圧)によっての反復強迫であることを示したが、ドゥルーズの「強制された運動の機械」も固着による反復強迫(タナトス)である。

したがってラカン語彙で言えば、強制された運動の機械はサントームでありうる。

ここでは前回かかげた現代ラカン派による定義集から二文だけ掲げておこう。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


そもそもドゥルーズによる「強制」という語彙の起源は、プルーストにあるように思われる。そしてプルーストの無意志的記憶の回帰、とりわけ「心の間歇」の章ーーもともと『失われた時をもとめて』の原題をプルーストは「心の間歇 intermittence du cœur」としようと考えていたーーにある記述は、遅発性外傷障害だとされることがある。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)

ラカンのサントーム概念自体、外傷神経症に限りなく近似した概念である。それも前回示した。

外傷神経症とは、死の本能概念の起源である。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


いままで何度か引用してきたが、まずドゥルーズの原抑圧と固着をめぐる記述を抜きだすことにする。


ドゥルーズ における原抑圧
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)
反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x])」に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章)
ドゥルーズ における固着
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復automatisme」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

次にフロイトから原抑圧と固着にかかわる記述をいくらか抜き出す。上でドゥルーズ が使用している語彙群にかかわるフロイトの記述である。

フロイトにおける原抑圧、あるいは固着による自動反復
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916年)

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

以上により、ドゥルーズ による「強制された運動の機械」という表現は、固着によっての反復強迫(タナトス)にかかわると捉えうる。

強制された運動の機械
『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年) 
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。

・見出された時le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。

・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの perteは、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

さて、そのとき自由に流体する欲望機械とはなんだろうか? 強制された運動機械と自由流体としての欲望する機械のどちらも「死の本能」となっているが、両立するとは思えない。

自由に流体する欲望機械
ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)



ドゥルーズ(&ガタリ)による死の本能の捉え方を簡潔に図示すればこうなる。




この欲望機械概念は、ラカン派においてはかねてから悪評が高い(フロイトのタナトス概念をまったく捉えそこなっているというものである)。ドゥルーズ研究者自体、世界的にみても、この二つのあいだの齟齬に触れるのを敬遠しているのではなかろうか。その割には、欲望機械の審級にあるだろう「機械」概念を齟齬を問わないままで使用するドゥルーズ学者はいまだあとをたたないが。

だがその話はもうやめておこう、「まぁ、世界はその程度のもの」なのだから。

まぁ、世界というのはその程度のものだと思います。 (蓮實重彦ーー「私を泣かしたからにはゴダールを許さない」青山真治との対談)

 とはいえ、ここで欲望機械概念を肯定的に捉える仕方もないではない。それは前回、示した二種類あるサントームの意味のもう一つの方である。すなわち「固着としてのサントーム」から距離をとる「父の版の倒錯としてのサントーム」。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

欲望機械は、ラカン理論的にはこの審級にあると捉えうる、とわたくしは考えている。ドゥルーズの欲望機械を「欲動機械」に仮に置き換えてみても、欲動とは、かならず固着による強制された運動なので、自由に流体する欲動機械などというものはフロイト・ラカン理論上はありえない。とすれば「固着=サントーム=享楽」に対する防衛としての欲望機械しかない。



欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960)
欲望は享楽に対する防衛である  le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
私は(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、後年、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)
(厳密さを期さなければ)抑圧 Verdrängung と防衛機制 Abwehrmethodenとは、テキストの省略 Auslassungと歪曲 Textentstellung の関係に相当すると言ってよい。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第5章、1937年)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)



ここで断っておかねばならないのは、後期ラカンが使う「倒錯」とはまったく悪い意味ではないことである。

現代ラカン派はトラウマ的な原症状(身体の享楽)に対する防衛として一般化倒錯の必然性を語っている。この「一般化倒錯 perversion généralisée」とは、穴(トラウマ)に対する穴埋めという観点からは、「一般化妄想 délire généralisé」とほとんど同じ意味である。





父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

現代ラカン派では、この「別の排除」を、人間が誰しももつ排除として「一般化排除 forclusion généralisée」と命名しているのである。それは一般化トラウマ traumatisme  généralisée と呼んでもよい。

ようするに原抑圧(固着)による「身体的なもの」の現実界への置き残しが「一般化排除」あるいは「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」(Ⱥ)であり、穴とはラカンの定義上、トラウマのことである。

以下、妄想と倒錯の意味合いが、後期ラカンにおいてはとてもよく似ていることを示しておく。


妄想
倒錯
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール, Vie de Lacan、2010)
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(J.A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。そしてこの理由で、後期ラカンは「父の隠喩 la métaphore paternelle」について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(Miller, L'Autre sans Autre , 2013)
トラウマ(穴)と穴埋め
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン, S21, 19 Février 1974 )
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン, S16, 26 Mars 1969)