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2019年6月29日土曜日

時代の病「DSMと自閉症」

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

⋯⋯⋯⋯

フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)にて、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」のすすめをしたが、現在の精神医学界のバイブルであるDSM(精神障害の診断と統計の手引き)自体が、時代の病、新自由主義社会の病理でありうるという観点があることを以下に示す。

わたくしに言わせれば、たとえば現在の擬似風土病「自閉症」を流行させている精神医学界自体の病理を人は問わねばならない。





ーーこの図表は、もっともわかりやすいだろうモデル的表であり、調査の仕方によって数字の異同は若干ある。おおむねこの傾向だという形でとらなければならない。

ほかにもたとえばこういう指摘がある。

There has been a phenomenal increase in diagnoses of autism since the 1960s which has attracted the attention of many researchers ranging from psychiatrists and social scientists to literary analysts (e.g. Murray, 2008; Nadesan, 2005; Silverman, 2011). Victor Lotter's first epidemiological study of autism posited a rate of 4.5 per 10,000 children but a 2006 Lancet article claimed a rate of 116.1 per 10,000 children in the UK and this figure continues to rise (Baird et al., 2006; Baron-Cohen et al., 2009). Gil Eyal et al. have argued that, in the USA and many other western countries, diagnoses of autism rose after institutions for the ‘mentally retarded' were closed down in the 1960s and children were integrated into new educational and social settings (Eyal et al., 2010). Changes in diagnostic methods from the 1960s to the 1980s meant that autism came to be associated with ‘profound mental retardation and other developmental or physical disorders' thereby increasing the number of children who were considered to display autistic traits (Wing and Potter, 2002). This explains why diagnostic rates of autism did not increase as much in France, where there was no great release of ‘retarded' children from confinement in the 1960s and where children with developmental problems continue to receive institutional residential care up to the present day (Eyal et al., 2010). (Bonnie Evans, How autism became autism:  The radical transformation of a central concept of child development in Britain, 2013)

ようするにDSMの「自閉症」増加とは、アングロサクソン病なのである。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番)

アングロサクソン病、すなわち新自由主義病である。



◼️DSM
1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』)
英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)
精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。(⋯⋯)

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007)
DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.……

DSM が臨床の現場に弊害を与えたとしたならば,それは第Ⅲ版ではなく,第Ⅳ版(1 9 9 4 )の時代ではないでしょうか.第Ⅲ版も第Ⅳ版も操作的診断学として,その基本骨格は同じです.しかし第Ⅲ版では, 「この診断マニュアルは,精神科の基本的診断ができるようになっている人が使用するように」 ,という但し書きが付けられています.つまり一定の臨床経験を積んだうえで使うものと位置付けられているのです.われわれもそれを確認して納得したものです.……

実は,第Ⅳ版にもそうした但し書きがいくらか記載されているのですが,たいていは無視されています.ちなみにその箇所を読まれた方はどれくらいおられるでしょうか.第Ⅳ版の時代になって,米国の精神医学は謙虚さを失いました.そして誇りと自信を失った日本は,それに唯々諾々と従っているわけです.……

…現在の診断学では信頼性が暴走しています.たとえば経験豊かな精神科医でも,駆け出しの研修医でも同じ診断にならなければならないというのは乱暴な話です.さらには臨床に携わったことのない研究者でも同じ診断になるならば,臨床知は捨て去られることになります.なぜなら,一致させるためには,低きに合わせざるをえないからです.こうした体たらくでは,素人にばかにされるのもいたしかたありません.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011)


◼️自閉症
自閉症の領野の拡大するとき、結果として市場にとってひどく好都合な拡大が生じる。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Agnes Aflalo, Report on autism, 2012)
新自由主義の能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent, 2012)
自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。

生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両 親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子ど もが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになる でしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養 育法にたいする非難もなくなります。

しかし罪責感の問題は、実際はそれほど単純なもので はありません。なぜなら、遺伝子などの生物学的な原因が認められたとしても、親は子どもにたいして、たとえば不利な遺伝子的条件を与えたとなどいうことで罪責感をいだくようになると考えられるからです。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的 な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということ です。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されな ければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)