君たちはたった一人だけでもヨーロッパにとって物の数にはいる精神を指摘することができるか? 君たちのゲーテ、君たちのヘーゲル、君たちのハインリヒ・ハイネ、君たちのショーペンハウアーが物の数にはいったように? ーーただ一人のドイツの哲学者ももはやいないということ、これは、いくら驚いてもきりのないことである。ーー(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」『偶像の黄昏』所収、1888年)
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ああいった連中に求めてもムダなのは重々承知でいるけど、ドゥルーズが死の2年前次のように言ってもう30年近くたつんだな。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)
次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」)
ドゥルーズ派に美学系やらなんやらがいるの否定するつもりはないけど、なんで誰も『マルクスの偉大さ』を受け継がなんだろ? 世界的にまともにやっているドゥルーズ研究者っているんだろうかね、ボクにはラカン派のほうがずっとましにみえるな。
ためしに「マルクスの偉大さ」というテーマのドゥルーズカンファレンスやってみたらすぐわかることさ。きっと人材不在で、ラカン派を呼ばざるをえなくなるから。
たとえば1979年生まれのサモ・トムシック Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』(2015)とかさ(今年は『享楽の労働 The Labour of Enjoyment』(2019)も上梓されている)。
ジジェクはこう言ってるけどさ。
真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)
いまドゥルーズ 研究者が真にやるべきことは資本主義批判しかないんじゃないか? 資本主義批判が紋切りというなら新自由主義批判だな、現在の世界はドゥルーズにどう見えるかをすこしでも問えば、必ずそこに行き着く筈だよ。
ま、ようするに、ドゥルーズ学者ムラってのは精神の中流階級ばかりだな
学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)
以下、冒頭のニーチェの柄谷・浅田版を掲げておくよ。
浅田) それにしても、こんなに人材が少ないなんて思ってた? ぼくなんか、同世代にもっと優秀な人材がいるはずだとずっと思ってたし、今も多少は期待しているけど……。
柄谷) 甘い(笑)。ぼくも昔はそう思っていて、もしかして俺が勝手に威張っているだけなんじゃないかと思ったりしたけどね(笑)。中上健次ともよくそういう話をしたことがあったけど、四五歳を越えたころにやっと見極めがついた。単に、いないんだよ。
坂本) 実際、世界的に見てそうだよね。
柄谷) しかし、世界的に人材が少ないとしたら、どうなってしまうのだろう?
浅田) 人口だけは多い(笑)。
柄谷) たしかに、フランス現代思想がどうのこうの言ったって、ドゥルーズ、フーコー、デリダで尽きてしまうじゃないか? それも本質的には六〇年代の仕事だった。(……)
しかし、見方を変えれば、かれらの仕事もマルクス、ニーチェ、フロイトの延長上にあるわけだし、ああいうものはずっと古びないとも言える。いまだにマルクスを批判していればいいと思っているやつがいるけどね。
浅田) 共産主義が崩壊した以上、反共ということにはもう意味がない。資本主義が全面化した以上、資本主義をいちばん鋭く分析したマルクスの仕事が残るにきまっている。(座談会「悪い年」を超えて」坂本龍一・浅田彰・柄谷行人『批評空間』1996Ⅱ-9)
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柄谷やジジェク(浅田にもいくらかある)というのは、ラカン的に言えば、1968年、さらに1989年以降はことさら次の図の右項から左項に支配的イデオロギー(支配的非イデオロギー)は移行したということを言い続けている。
左項はいっけんよさそうに見える、関係性、差異性、単独性等々。だがこれは資本の論理でもあるということ、《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。》(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談、1990)
私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)
ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
機械概念等がまだお好きらしいドゥルーズ派はすくなくともこれと闘うべきだと思うがね(参照:資本の言説の掌の上で踊る猿)。