このブログを検索

2019年6月30日日曜日

ドゥルーズ における自閉症の把握

既に何度かくり返し引用しているが、ドゥルーズから三つの文を再掲する。これらの文に(ラカン派の捉える)「自閉症」が既にある。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復 automatisme」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

この三つの文からまず、「固着による反復=強制された運動の機械としての死の欲動」と読むことができる。

「自動反復 automatisme」とあるが、これは次のフロイト文からである。

…この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ドゥルーズの冒頭文に「トラウマに伴った固着と退行」とあるが、これもフロイトから抜いておこう。

◼️固着と退行
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917)


◼️トラウマへの固着
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…

これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

ーーこの「トラウマへのリビドー固着」が、ラカンのサントーム(=原症状)である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,、L'être et l'un、 30/03/2011)

ラカンは、《症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)と言っているが、この症状はサントーム(原症状)のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)

そしてミレール次の文で 「享楽は身体の出来事」というとき、「享楽はサントーム」と言っていることになる。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ミレールは2005年のセミネールで次の図を示している。



ーーこれは右項が人の底部にあり、左項が上層部にあるという意味である。たとえば欲望は欲動(享楽)に対する防衛である。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

ミレール簡潔版なら次の通り。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


話を戻せば、現在ラカン派では「トラウマへのリビドー固着」ことを、論者によって「享楽の固着 la fixation de jouissance」とか「享楽への固着 une fixation à une jouissance」等とも言うが、ようするに「享楽=サントーム=固着」である。

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (Jacques-Alain Miller L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、 2011)


さてここで「自閉症」である。

後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)

次の文は上の文の言い換えとしてある。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1 を通した身体の自動享楽 [auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2]に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)

ーー《S2なきS1 を通した身体の自動享楽 [auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2]》とあるが、これが自閉症的享楽である。

《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》とは、もちろんドゥルーズ文に出現した「自動反復 automatisme」、フロイトの(身体の)「自動反復 Automatismus」のことである。


ラカンはセミネール10の段階で、自閉症的享楽と身体自体の享楽を等置しているが、ここではミレールの簡潔版を引用する。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000年)

自閉症的享楽とは、自閉症における常同的反復症状という意味である。そもそも自閉症的享楽とは重複語であり、「享楽=自閉症的なもの」である。

ミレール派(フロイト大義派)の、おそらくエリック・ロランに引き続くナンバースリーのポジションにあるPierre-Gilles Guéguenは、これをとても簡潔に表現している。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


冒頭近くに引用した『意味の論理学』に、《強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である》とあったが、サントーム=自閉症的享楽が、反復強迫(死の欲動)であるのは、次の文章群が示している。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

以上、ドゥルーズが1960年代後半に既に「固着による反復=強制された運動の機械としての死の欲動」とフロイトから読み取ったのは、現在のラカン派から見ても、限りなく先見的で限りなく正しい。

⋯⋯⋯⋯

ラカン派観点から言えば、ドゥルーズの問題はガタリと組んだ後の「欲望機械」概念である。



もっともーージジェク等による厳しい批判があるにもかかわらずーー、別の捉え方がないではない。

ラカンには「二種類のサントーム」がある。ひとつは上に記した固着としてのサントーム(原症状)、そしてその原症状から距離を置くサントームである。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

たとえばラカンは次のように言っている。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

父の版の倒錯としてのサントーム、ーー「欲望する機械」はひょっとしてこのサントームと捉えられないこともない。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)

欲望機械はさておいても、1980年のリトルネロ。

リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ラカンにとって、 《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (S21, 08 Janvier 1974)である。

そしてこのララングとはサントームΣとほぼ等価である。

ララング lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

今は簡略化して記すが、ラカン的に言えば、身体から湧き起こる内的カオスを固着するのが、まず原症状としてのサントーム≒リトルネロである。そしてそのサントームから逃げ道を接木するのが、父の名の倒錯としてのサントームである、ーーこう解釈しうるのである(参照:リトルネロとしての女性の享楽)。




⋯⋯⋯⋯

※付記

ここではサントームは死の欲動、つまり自閉症は死の欲動であることをみたが、死の欲動とは、外傷神経症でもある。自閉症は外傷神経症であることについては、「自閉症の最も深い意味」を見よ。