「基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ)」について、デリダやらドゥルーズやらと二度も言ってくるひとがいるが(たぶんまえと同じひとだと思うが)、わたくしはどちらもよく知らない。無視しているわけじゃないが、応答しようがない。
ただしラカンはこうは言っている、よく知られているように(?)。
《ドゥルーズ君の『差異と反復』、『意味の論理学』は偉大な本だよ、わしの考えをパクってくれている。彼は完璧に分かっておる。》(S.16,12 Mars 1969、超訳)
Il arrive par exemple qu'un M. Gilles DELEUZE, continuant son travail, sorte sous la forme de ses thèses, deux livres capitaux dont le premier nous intéresse au premier plan. Je pense qu'à son seul titre Différence et répétition, vous pourrez voir qu'il doit avoir quelque rapport avec mon discours, ce dont certes il est le premier averti. Et puisque comme ça, sans désemparer, j'ai la bonne surprise de voir apparaître sur mon bureau un livre qu'il nous donne en surplus… vraie surprise d'ailleurs car il ne me l'a nullement annoncé la dernière fois que je l'ai vu après le passage de ses deux thèses …qui s'appelle La logique du sens.
だから、vacuole de la jouissance てのが、ドゥルーズの潜在的対象だよ、いや左上にある〈女 la Femme〉のほうだな、真に肝腎なのは。
12 Mars 1969 |
ほかにも« cause du désir »をめぐって、ドゥルーズの名を出している。
(S.16,22 Janvier 1969) |
上のセミネール16(12 Mars 1969)の図というのは、ミレールの(やや古い)対象a 説明そのもの。
現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)
◆ミレールの注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)
対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。
〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)
…………
これらはかあさんが教えてくれたように、ドゥルーズとともに読むことができる(だいたいドゥルーズはもともとは女に惚れたり、母さんを思いだしつつ差異と反復を考えたんじゃないか?)
母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
◆Elizabeth Schwarzkopf - Songs my Mother taught Me
要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』)
実際、ドゥルーズはフロイトの原抑圧un refoulement dit « primaire »に言及しつつ、このことを語っている(上掲文の前段)
反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反 復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。
そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。 ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète 。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise, et l'on déguise en vertu du foyer déterminant de la répétition. 。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起 源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。 なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら 二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でど ちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかも それら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、お のれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、 なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象が ファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
だいたい、ドゥルーズの研究者連中ってのはーーきみがそうなのかどうかは知らんがーー対象aも 原抑圧もまともに考えようとしているようにみえん(「おおむね」だし、「印象」だがね)。だから文字通り「話にならん」。
デリダについてはドゥルーズ以上にしらん。ただしラカンはデリダに向けてあの誤読は勘弁してくらないものか、と言っているらしいことぐらいは知っている。
無意識の形成物についてフロイトが言うことを再現するために、私が文字を使って書き記したことからは、無意識の形成物とは結局シニフィアンの効果であるので、 文字をシニフィアンにすることも、 さらにはシニフィアンにたいして 文字に原初性を与えることも許されない。(訳注:デリダへの批判)
このように混乱したディスクールは、私を導入する[importer]ディスクールからしか生まれなかった。だが、それ が私を導入するのは、 後になって私が大学のディスクールとして、 つまり、 見せかけから出発して使用される知として取 りだしたもう一つのディスクールのなかにである。 私が扱う経験はそれとは違うディスクールによってしか位置づけされないという感覚が少しでもあれば、このよう な混乱したディスクールを、 言いだすことは避けられたであろう。 それが私のものだとは認めていないが、 それは勘弁していただきたいものだ。今言った意味で私を導入することは、私を煩わす[importuner]ことには変わりない。 (ラカン、リチュラテール lituraterre、1971、向井雅明訳)
【ラカン派によるデリダの位置づけ】
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)
ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 manque du manqueである(参照)。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité)と。
デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴的要素 intrasymbolic element として、常に考えているように見える。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007,私訳)