いやあ最近なんだか下書きが溜まりすぎてしまった・・・
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われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave"
母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
◆Elizabeth Schwarzkopf - Songs my Mother taught Me
要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』)
彼女らの顔は動くが、その動くうちにも、目鼻立が比較的固定しはじめて、そこから、貨幣にうちだされた肖像のようなものが、輪郭をぼかした、伸縮自在の大きさであらわれてくるようになって、私の欲望は、ますます官能を増しながら、彼女らのあいだをさまようのであった。顔と顔とのあいだにある相違 différences に、目鼻立ちの、長さや幅のなかいあるおなじような相違が呼応することは、まず望まれないが、目鼻立というものは、これらの少女たちがどんなに相違 différences しているように見えても、たがいに一方を他方にかさねあわせることができるといっていいだろう。しかし、われわれがおこなう顔の認識は、けっして数学的ではない。まず、われわれの認識は、部分部分を測定することからはじめないで、一つの表情、顔全体を出発点にしている。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」井上究一郎訳)
たとえば、アンドレでいえば、繊麗な、やさしい目が、ほっそりとつまみあげた鼻によくマッチし、その鼻筋は細い一本の曲線をひいたようで、双眸の微笑のかさなりのなかにはじめて二分されていた繊細な意図が、その鼻筋のただ一つの線の上でつづけられているようであった。おなじようにまた一つの微妙な線が彼女の髪のなかに、しなやかな、深い畝をつくっていて、まるで風が砂に跡づけた線のようであった。そして、そのことは、まさに遺伝をあらわすものに相違なく、アンドレの母親の真白な髪は、大地の起伏にしたがって盛りあがったりへこんだりしている雪のように、ここではふくらみをつくり、そこではくぼみをつくりながら、おなじように波うっていた。(……)
◆Lois Marshall sings Gabriel Fauré's "Chanson d'amour"
なるほど、アンドレの鼻の細い輪郭にくらべると、ロズモンドの鼻は、ひろい面積を提供していて、がっちりとした土台の上にすえられた高い塔のように見えた。表情は、極微のものがつくる相違 différences entre ce que sépare un infiniment petit のあいだに、大きな相違 énormes différences を考えさせる力をもつものであるとしてもーーほんの極微のもの un infiniment petit が、それだけで、一つのまったく特殊な表情、一つの個性を創造することができるとしてもーー彼女らの顔をたがいに相殺できないもののように見せているのは、そうした極微の線と独自の表情ばかりではなかった。
◆Fauré: Au bord de l'eau - Régine Crespin
私の女の友人たちの顔のあいだには、色彩がまたいっそう深い差異 séparation plus profonde encore をつけていたのであって、その差異は、いくらかは、色彩が顔にもたらす調子、つまり顔色が示すさまざまの美によって生じたのであり、その顔色がひどく対照的なあまり、私はロズモンドのまえでもーーこれは硫黄色をおびた一種のばら色で、その地色に目のみどり色のかがやきが目立っていたーーまた、アンドレのまえでもーーこれはその白い頬が、その髪の黒さできりっと目立っていたーー同じような快感をおぼえたが、その快感は、たとえば、ひるのあいだ、燦々と日の照る海のほとりのゼラニウムと、夜、闇のなかに咲く白椿とを、こもごもにながめているような快感であった、しかし、とりわけ顔の差異は、色彩というこの新しい要素によって、線の極微の差 différences infiniment petites des lignes が法外に大きく見えるようになり、面と面との関係がまったく変えられてしまったから生じたのであって、色彩は、顔に調子をもたらすとともに、顔の面積のすぐれた再生者、すくなくとも変更者なのだ。(……)
◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré
アルベルチーヌも、その点では、やはり友人たちとおなじであった。日によっては、ほっそりして、顔色は灰色にくすみ、陰鬱そうに見える、そして、海でときどき見かけるように、何か透明なむらさき色のものが、目の奥から、斜にちらとおりてきて、そんな彼女は、遠い島流しの悲しみを味わっているようだった。またある日は、いつもよりなめらかな彼女の顔面は、その表面に塗られたニスに私の欲望を膠着し、欲望がもっと奥にはいるのをさまたげるようであった、そんなときはふいに横向きから彼女をながめればよかった。なぜなら白い蠟のようにその表面を血色を失った頬も、横から透かすとばら色で、それを見ると、しきりにその頬に接吻したくなり、そんな奥に逃げこんでいるその変わった色あいをとらえたくてたまらなくあんるからであった。またあるときは、幸福が、非常によく動くあかるい光でのその頬をひたしていて、そのために、ぼんやりと液体化してみえる皮膚は、さらによく見ると皮下のまなざしとでもいったものを透かしている、そしてその皮下のまなざしが、皮膚を実際の目とはちがった色だが物質はおなじものであるように見せているのだった、……(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」井上究一郎訳、pp.338-341)
◆Elly Ameling: Notre amour ♦ Le secret ♦ En sourdine by Fauré
ところで私の視線が早く接吻するようにと私の口にうながしていた頬、その頬にまず私の口が近づきはじめたとき、その接近につれて、私の視線は、移動しながら、つぎつぎに新しい頬を目にすることになった、そしてぐっと間近に、拡大鏡で見るように知覚された首筋は、その皮膚の粗いきめのなかに、一種のたくましさを見せ、そのたくましさが、顔の性格を一変した。(……)
アルベルチーヌが以前バルベックでしばしば私にちがって見えたのとおなじように、このときも(……)私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌ c'est dix Albertines que je vis なのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった。すくなくとも、私がそれにふれなかったあいだは、その顔は、私の目に見え、ほのかな匂をそこから私にまでつたえてきた。しかし、ああ! ――くちづけをするには、唇のつくりがまずいように、われわれの鼻孔や目もその位置がまずいので、――突然、私の目はみることをやめた、こんどは鼻が、おしつぶされて、どんな匂も感じなくなった、そして、そのために、待望のばら色をしたものの味をそれ以上深く知ることもなく、こんな厭うべき捺印によって、ついに私は自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているところだということをさとった。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」pp.97-98)
◆Ninon Vallin, En sourdine (Fauré)
かつてあんなにきびしい顔つきで拒んだものをいま彼女がこんなにやすやすと私にゆるしたのは、私たち二人が、バルベックの場面とは逆の場面(物体の逆回転という形であらわされる)を演じていて、寝ているほうが私であり、起きているのは彼女で、乱暴な攻撃に会えばうまく身をかわすことがでいたし、自分の勝手のいいように快楽をみちびきだすことができたからであろうか? (なるほど、以前のあの顔つきと、この日私の唇が近づくときに彼女の顔がたたえていた官能的な表情となあいだには、線のきわめてわずかな偏差 déviation de lignes infinitésimales しかなかった、しかしそうした偏差のなかには、相手に切りつけてそれにとどめを刺そうとする男の身ぶりと、そんな相手を救おうとする男の身ぶりとのあいだにあるような、そんなへだたりがあるといえよう。)(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」井上究一郎訳、pp.98-99)