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2015年10月16日金曜日

姉様かぶり

羽織かくして、  袖ひきとめて、  どうでもけふは行かんすかと、
言ひつつ立つて櫺子窓、  障子ほそめに引きあけて、
あれ見やしやんせ、  この雪に。

わたくしはこの忘れられた前の世の小唄を、雪のふる日には、必ず思出して低唱したいような心持になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろう。(永井荷風『雪の日』)

ーーと読んで喜多川歌麿の『青楼年中行事』の絵を探してみたのだがそれらしきものに遭遇できない。かわりに次ぎの画像に行き当たったので貼り付けておく。

まずは明治大正時代の吉原。





昭和6年の吉原。





1932年(昭和7年)の吉原。





今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。

友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩くて迷惑なら壜詰を下さいと言うと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭を取りながら、お上んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜のした女であった。

はて、姉様かぶりとはなんだったか。わたくしはこのあたりにことさら無知である。何度かはこの言葉に行き当たっているには違いないが、いままで調べてみようとは思わなかった。




 もうすこし探ってみると、喜多川歌麿ではなく、 歌川国芳の朝櫻楼:『艶 發合』に出会うことができた。




さて荷風の『雪の日』をもうすこし続ける。荷風を読んでいるとどうしても懐旧モードになる。この随筆はことさらそうだ。いつ書かれたのだろうか。いまいくらか資料を見てみても判然としない。

本文中に《七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら》とはある(荷風は1879年生まれ)。とすれば戦後に書かれた文か。だがどうもそんな感じはしないのだ。終戦直前か。

焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない。

友達が手酌の一杯を口のはたに持って行きながら、

雪の日や飲まぬお方のふところ手

と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、

酒飲まぬ人は案山子の雪見哉かな

と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、

舟なくば雪見がへりのころぶまで

舟足を借りておちつく雪見かな

 その頃、何や彼かや書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。(荷風『雪の日』)

姉様かぶりをした《三十ぢかい小づくりの垢抜のした女》が、《お寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出して》くるのにであい、それを《親切で、いや味がなく、機転のきいている》と感じる。

《こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない》ともある。





荷風の時代でも稀になっていたのだから、いまならなおさらだろう。

1987年に書かれた古井由吉の「中山坂」には、その僅かな生き残りの「気さくなお神」さんが出てくる。

「ああ、ネエさん、悪かったな、ここの店でちょっと休んでいくよ」

しっかりとした老人の声に、もうはずれに角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。

「なんだよ、野中さん、今日はまた美人の看護婦さんに付添われてさ。ますます元気じゃないか」
「いや、駄目だよ。馬場が、来るたびに遠くなりやがる」
「毎週毎週、歩いてきて、ようがんばるよ。もう明日きりで府中だねえ」

弱音を吐きながら女の肩を離れると足がすっくと立って、老人は鷹揚な背つきで店さきに近づき、追って傘をさしかけた女のほうを振り返ってオヤという目をしてから、笑って店の主人をたしなめた。

「おいおい、看護婦さんなんて、気安く言うなよ。お名前はまだうかがっていないが、この人は、命の恩人だ。大門の下で、大げさによろけかかってな。うしろから支えてもらわなければ、足腰がヤワになっているから、もろに転げて、頭蓋骨ぐらいは壊してたぞ。いまごろは、あんたたち、ピーポーの音を聞いて、爺さんとうとう往ったかって、喜んでいたところだ。ついでに向脛を打ってな、ここまで肩を借りてきた」

嘘も闊達で、勝手知ったふうに店の奥に入り、畳の間にあがって壁の柱を背に大きな胡坐をかくと、遠くから軒の外をすかし見るようにして、ゆったりと女をまた手招いた。

わたし、ここで失礼します、というこころで女は傘の下から頭を深くさげたが、その傘をすぼめて店さきに立てかけたとたんに、なにやらヌレネズミみたいな惨めたらしい恰好になり、三人に揃って眺められてちょっとたじろいだところを、気さくなお神に腕を取られて軒の下に入った。

畳〔うえ〕に上がるように主人にすすめられたが、ちゃぶ台に肘をついて競馬新聞を睨んでいる老人の、にわかにいかめしげな姿にけおされて、上がり口のはずれに腰を浅く斜めにかけ、額から首すじへ髪へとハンカチで拭ううちに、お神が寄ってきて、濡れて白っぽくなっているらしい顔を見て、お酒でもつけましょうか、と心配そうにたずねるので、また困っていると、うしろで老人が呼んだ。

「お嬢さん。人助けのついでにな、もうひとつ助けてくださらんか。後生ですから」
かけた腰を右にひねるか、左へはずすか、変なところで迷ってしどろもどろに振り向くと、老人は新聞を下に置いて女の顔を見つめた。
「ネエさんは」と物言いが先の調子にもどった。「知らないところに行っても、あまりまごつかないほうだろうね」
「平気なほうだと思いますけど。根が田舎者なんで、かえって」
「足も丈夫そうだね」
「さあ、どうかしら」
「これからひとつ、走ってくれないか」
「走る ……」

女の剥いた怪訝の色に押っかぶせるふうに、老人はちゃぶ台の前に居ずまいをただして懐から大きな財布を取り出し、万札を二枚抜いて台の上にいったんぽんと置いてから、紙きれとかさねてつかんで女の胸もとに差し出すと、女は胸を庇うみたいにしてそれを受け取ってしまい、万札だけをおずおずと台の隅に戻して紙きれに目を落とした。

「今が一時、まあ、ちょうどだ。大門からここまで十分もかかったか。七レースの発馬が二十分、締切りがその三分前だ。これから十五分ほどで競馬場まで行ってもらいたいのだ。紙が二枚あるな、その一と書いたほうを、着いたらすぐその足で、近い窓口に黙って突っこんでくれ。ただ、黙って。間違えたら、窓口のほうが教えてくれる。金を払ったら馬券を大事に抱えて、じきにレースが始まるから、後学のために見物しとくといい。つぎに前売りの窓口に行く。いいかね、前売りだ。案内所があちこちにあるのでそこで聞く。これは、次のレースを抜いておいたので、そんなに急ぐことはない。窓口まで行って、二枚目の紙をただ差し出して、言われたとおりに金を払って馬券を受け取る。そうしたら、ここまでまた、ぶらぶらともどってきてくれ。温かいものでも、仕度させて待っているよ」(古井由吉『中山坂』)