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2015年6月4日木曜日

享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!

アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方」にて、Bryantの名高いブログから2008年の記事を引用したが、昨晩、たまたま2013年の記事に出合った(Levi Bryantについては、WIKIPEDIAを参照のこと)。


ラカンまわりをマジに読みすぎると、たまにはこういうことをいってみたくなる気に(臨床家以外はほとんど誰でも)おそわれるのではないか・・・




 ーーとはいえ、ここではそのまま訳すことはせずに、自由連想意訳をしておく。

…………

なあ、たまにはラカニアンの汚れた洗濯に風を通さなくちゃな、とくに享楽ってのに。あれはいったいなんだっていうんだ? だれもまともにつかんでいるようにみえないな、オレだってサッパリだがね・・・しかもどいつもこいつもシャラシャラと享楽と口にだしやがる・・・

だいたい“a” ってのなんだろ? これは享楽のマークじゃねえのか? 対象a? 剰余享楽? トラウマ? それを反復強迫するってわけかい? ああ、Encore!もっとよ、もっとなの!

シャラくせえだけだよ、スペルマとバルトリン腺液の染みと臭いまみれの下着みてえなもんだぜ、窓を開けなくちゃな、空気を! もっと空気を!

そもそもなんで幻想の式$◇aは“a” を目指すんだろ? 主体はトラウマの過剰と融合したいんだって? 究極の享楽=死へ向かう? 

《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (Lacan,S.XVII)だとよ

ーーゴメンだね、ゆっくり遠まわりしたい口だな、オレは。

享楽に、ファルスの享楽jouissance phallique、剰余享楽Le plus-de-jouir、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreってのがあるのくらいわかってるさ、

ところがどっこい、さらに他の享楽l'autre jouissanceなんてのがあるんだな。で、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreと他の享楽l'autre jouissanceは違うらしい・・・で、女性の享楽jouissance feminineはどうなるんだろ? はあ? 

さらにはアンコールには、〈他〉の身体の享楽(他の享楽) la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)なんたらという記載もある・・・ なんだ、この身体って? 身体の享楽ってのは、<他>の享楽なんだろうか? それとも他の享楽なんだろうか? ラカンは少し前に、<他>とは身体っていってるんだな・・・

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

それに女の享楽、これは 他の享楽なんだろうか、それとも〈他〉の享楽なんだろうか? ーーわかるか、そんなもの! 

そもそも女だってファルスをカッツリつかんだり咥えこんだりする享楽あるだろ?





オレはファルスの享楽ってのがとりわけヤダね、〈他〉の享楽?ーーこれは敬して遠ざけておくよーー、そもそもファルスってのはありゃなんだい? オレがラカンの概念のなかで何がいちばん嫌いかっていえば、ファルスさ・・・

ファルスの享楽はセンズリ的だってラカンは言うんだが、これでさえナゾだな、それに去勢不安とかペニス羨望とかってマジかね、そんなもの人にあるわけねえだろ!






たとえばジジェクと会話すること想像してみろよ、 あのノンストップで怒濤のようにベラベラまくしたてるヤツ、あれはファルスの享楽じゃねえか? 相方なんてどこにもいないし、解釈の余地なんか毛ほどもないだろうな、こっちは口を開けて呆然としているだけさ、あれこそセンズリトークだよ・・・

で、日本のボウヤたちはなにいってんだい、ははあ、どうやらたぶん剰余享楽と〈他〉の享楽のようだが、ーーオレは知らねえぜ・・・


私は著書『原発依存の精神構造』(新潮社)で、二つのことを指摘した。

 一つは「フクシマを象徴化すべきではない」、いま一つは「原子力の享楽を警戒せよ」。くわしく説明する余裕はないが、私には日本人が、唯一の被爆国民であるがゆえに、原子力に強く魅了され、この狭く脆弱(ぜいじゃく)な国土に54基もの原発を建ててしまったのだと考える。原子力の可能性を過大評価することも、危険性を過度に煽(あお)り立てることも、“享楽的”であるがゆえに危険である。

 東らの「計画」に反対したいわけではない。不謹慎とも思わない。ただ「計画」が“原子力の享楽”の繰り返しにならないために、次の3点を提案したい。

 「最終的な脱原発」志向を明確に打ち出すことと、震災に関連するすべての死者への「鎮魂」の意図をこめること。地域住民や当事者と時間をかけて粘り強い折衝を重ね、その過程を透明化すること。

 退屈な提案だ。しかし、こうした「退屈さ」の導入こそが、象徴化や享楽の罠(わな)に陥らないために欠かせない配慮となるはずだ。(斎藤環の東北:8月 「ダークツーリズム」の享楽 毎日新聞 2013年08月13日 東京夕刊)
レイシストは彼らが敵として位置づける対象のなかに自らの享楽をみてとっているにすぎない。(松本卓也「レイシズム2.0?」)
千葉雅也@masayachibaどんだけ弱さとか自己破壊とか受動性とかをあえて肯定的に言うとしても、その肯定的に言ってること自体がそうした受動性が実は徹底してネガティブな状態ではなく耐えてサバイブできる程度のものであることを示しており、真のネガティヴィティは排除されてる、という話。はあ、他者探し乙……

なんかなあ。「弱度をあえてエンパワメント」するのもにもさらなる排除の構造があるとか言ったら、じゃあどうすればいいのよ。

この手の発想からすると、精神分析やドゥルーズでの、固有の享楽を見つけようみたいな誘いに対しては、どうにも享楽しようがない状況に置かれてる人はどうなるんだ、そこで「自分を騙して楽しいかのように思いなせ」というのか?!という批判が向けられそうだ。

おっと、斬新奇抜なplus-de-jouir(剰余享楽)解釈をする臨床家もいるじゃねえか、これだったらオレに安心感を抱かせてくれるな・・・

資本家のディスクールを論じるにあたって、ラカンが注目したのは l'objet petit a です。人間は、シニフィアンを掴んで、そこに意味を紡ぎ出し、価値を創り出し、悦びの連鎖すなわち「享楽 la jouissance」という独自の次元を創りだしてゆくのですが、その遥か彼方にある究極の享楽が l'oblet petit a です。いい換えるならば、わたしたちが日常体験している悦び以上の、いわば過剰の悦びなのです。ラカンはこれを le plus-de-jouir と表現します。もうこれ以上は享楽できないよ、という究極の享楽、わたしはこのニュアンスを出すために le plus-de-jouir を「極-楽(きょくーらく)」と翻訳しました。l'objet petit a は、生命の最終的な到達点つまり死 la mort でもあるわけですから、この究極の享楽を極楽(ごくらく)に掛けて、そこへハイフンを入れて「きょくらく」と読むことにししたのです。一般的な訳し方をすれば「剰余享楽」となるでしょう。恐らくここで、マルクス経済学を専門にしている人は「剰余」なる言葉に敏感に反応されるかもしれません。「剰余」つまり「剰余価値」を連想します。フランス語では la plus-value です。似ていますね。(藤田博史)

性関係は無いのですが,性的と呼べるような満足が無いわけではない.それを Lacan は「剰余悦」 le plus de jouir と呼んでいます.それをただ単に「悦」 jouissance と呼ぶこともあります.用語や表現の厳密さから言えば,もうちょっと気をつけて言ってほしいと頼みたくなりますが,この明治生まれのじいさんはお構いなしでした.(小笠原晋也)

おい、ファルス享楽のジジェクさんよ、笑っちゃだめだ、彼らは真剣なんだから

まさに享楽の喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

おまえさんのやってることも、これさ




…………

※附記1:上に、jouissance de l'Autreを〈他〉の享楽としたが、日本ではふつう、〈他者〉の享楽とか〈大文字〉の他者の享楽とされるものである。

※附記2:Paul Verhaegheによる「剰余享楽le plus-de-jouir」の叙述

The question then is, What remains of the original jouissance? Again, Lacan answers with an equivocal expression: "le plus-de-jouir." In French, this can be understood both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." The jouissance that remains for the subject after its defensive elaboration is less than and different from the original form and will never be fully satisfactory.

……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ヴェルハーゲ 2009 new studies of old villains)

ジジェクは英文のまま貼り付ける。

Here Lacan's key distinction between pleasure (Lust, plaisir) and enjoyment (Geniessen, jouissance) comes into play: what is “beyond the pleasure principle” is enjoyment itself, the drive as such. The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain; it is the part of jouissance which resists being contained by homeostasis, by the pleasure‐principle; it is the excess of pleasure produced by “repression” itself, which is why we lose it if we abolish repression.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)