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2017年4月11日火曜日

ポエジーという分析の言説

写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

…………

人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )




《ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね》(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

…………

ラカンによる言説とは、「社会的つながりを作り上げるもの」という意味である。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ、1972)


分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: « Je » de la jouissance を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p. 25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての立ち位置を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdfーー基本版:「四つの言説 quatre discours」)

分析家aは、知S2を隠蔽して、まずは「沈黙」しなくてはならない。



ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、(この妻の姿勢は)分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

aに直面した分割された主体(ヒステリーの$)は、テュケーという穴に(偶然に)遭遇する。



対象a、それは穴のことである。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

原対象aとは、穴Ⱥのことである(参照:三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ))。穴とは欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

…………

テュケーとは、トラウマ、穴 Ⱥ のことである(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。

《我々は皆知っている。というのは、我々すべては現実界のなかの穴を埋める combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。》(ラカン、S21、19 Février 1974 )

テュケーTuchéの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

テュケー(現実界)とは、オートマン(象徴界)の穴に偶然として出現するものである。ラカンはこの出現を、ハイデガー用語「外立 Existenz」を使う。外立の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

散文的に記せば、テュケー(現実界)は、分節化された象徴界の内部の非全体 pas-tout の領域に外立 ex-sistence する、である。

ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency)

テュケーはオートマトンの裂目である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る遇発性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身)

プンクトゥムは、ストゥディウムの裂け目に出現する。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

プンゥトゥムは、ストゥディウムのなかに穴を開けるものである。

現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18)

精神分析とは、ストゥディウム(象徴界)を揺らめかすことである。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

享楽(現実界)とは、快楽(象徴界)を揺るがすものである。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽(享楽 jouissance)のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがす fait vaciller もの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

享楽とは、欲望の不意を襲う(宙吊りにする)ものである。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

美とは、欲望を宙吊りにするものである。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7)

《エクリチュールとは……、認識や主体を揺るがせる fait vacillerものである。》(ロラン・バルト『記号の国』)

詩とは、象徴界に穴を開けるもの、象徴界を揺るがすものである。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

ーー谷川俊太郎「理想的な詩の初歩的な説明」より

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977)

まさに、ごくわすかなこと、ごくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。

静かに。――(ニーチェ「正午」)

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(Lacan,E 853)

詩とは欲望の生垣に穴をあけるものである。

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)

同じことだが、分析の言説とは、欲望の生垣$に覗き穴aを開けるものである。生垣を揺らめかすといっても同じことである。




だがなぜ生産物としてS1が生まれるのか。S1とはファルス、あるいは父の名ではなかったか?



分析の言説の産出物は「父の名」であるに相違ない。だがイデオロギー的父の名ではなく分析主体(被分析者)固有の父の名である。この父の名をサントームΣとも呼ぶ。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

《私に想い起こさせるのは、いくつかの民話や妖精の物語である。そこでは愛された人、欲望の対象(a)は、あれやこれやの理由で、もはや話すことができない。そのため主人公($)は、解決策を自ら創造しなければならない。その解決策において、彼は、以前には知られていなかった彼自身の存在に遭遇する。》(Paul Verhaeghe-From-Impossibility-to-Inability, 1995)


詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎

ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ

ーーもちろん柿の木とはS1のことである。

小説/詩の関係は、場合によっては映画/写真の関係と相同的でありうる(ハリウッド風の三文欲望映画ならことさら)。

プンクトゥムに関する最後の問題。プンクトゥムは、その位置が限定されていてもいなくても、補足的なものである。私が写真につけ加えるものであり、しかもすでにそこにあるものである。(……)映画の場合、私は映像に何かをつけ加えたりするだろうか?――私にはそうは思われない。私にはそんな時間はない。スクリーンの前では、私は目を閉じる自由をもっていない。そんなことをしようものなら、目を開けたとき、ふたたび同じ映像を見出すわけにはいかなくなる。私はたえずむさぼり見ることを強制される。映画には他の多くの長所があるが、思考性だけはない。私がむしろフォトグラム(映画のコマ写真)に関心をもつのはそのためである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


(ゴダール=ナタリー・バイ Sauve Qui Peut)

すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(プルースト「囚われの女」)




一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る

ーー吉岡実「自転車の上の猫」



私たちはまた坂をくだっていった、すると、一人また一人とすれちがうのは、歩いたり、自転車に乗ったり、田舎の小さな車または馬車に乗って坂をのぼってくる娘たちーー晴天の花、ただし野の花とはちがっている、なぜなら、どの娘も、他の花にはない何物かを秘めていて、彼女がわれわれの心に生まれさせた欲望を、彼女と同種類の他の花でもって満足させるというわけには行かないからーーであって、牝牛を追ったり、荷車の上になかば寝そべったりしている農場の娘、または散歩している商店の娘、または両親と向かいあってランドー馬車の腰掛にすわっている上品な令嬢などであった。(プルースト「花さく乙女たちのかげに」)



ーーいやあ欲望を宙吊りにしない美だってあるかもしれない・・・

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。(ラカン、S7)

ラカンの戯言ではなかったか、と疑ったってよい。

「美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである」とカントは言った。この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである。ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心(le désintéressenment)である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』1887年)

もちろんいろいろな解釈がある。 《美はおそるべきものの始まりである》(リルケ『ドゥイノ』)

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)


(Suspended Ball 1930-1931)


ーーアンドレ・ブルトンやダリを魅了した若きジャコメッティの「宙吊りになった玉」である。

美とは何か? ーーそれはそれぞれの人が考えたらよろしい。すくなくともエロス的人格(ヒステリー)とタナトス的人格(強迫神経症)では、(表面的には)異なるに相違ない。

基本的には、母に愛され過ぎた人間はタナトス的になり、十分愛されなかった人間はエロス的になると言われている(前者は融合不安、後者は分離不安に起因し、その反動としてタナトス(分離)/エロス(融合)がそれぞれ生まれる)。だがこれもそういう見解がある、という範囲にとどめておいたほうがよい。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』

わたくしの場合、なによりも魅惑されるのは裂目である。




身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅apparition-disparition の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

かつまた出現ー消滅の演出だって種々のヴァリエーションがある・・・




この正午、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。

――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』




ここでフロイトが『夢解釈』の冒頭を飾る夢として選んだ、イルマの注射の夢のさわりを想い起しておこう。フロイトは若い女性患者イルマの喉を覗き込む。彼がそこに見たものは、原初的な肉、〈モノ=対象a〉としての波打つ生命物質という〈現実界〉だった。

肝腎なのは、原初の「波打つ生命物質」である・・・《谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ》(老子「玄牝の門」)

そしてしばしば誤解があるのだが、《他の性 l'Autre sexe とは、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)。

…………

馬鹿げたことじゃない、精神分析がイカサマ escroquerie に陥りうると言うのは。(ラカン、S24、15 Mars 1977)

藪精神分析家や藪心理療法士の類には十分注意しなければならない。詩にめぐりあうか、ブラックホールȺに(ふんだんに)出会ったほうが、よほど分析効果がある、--ということはありうる(わずかしか出会わなかったら逆効果かもしれない・・・)。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

人は、《笑うことによって厳粛なことを語る ridendo dicere severum》(ニーチェ、トリノ書簡)ーーのでなくてはならぬ。