45度回転させれば、そうなる。
大学人の言説とは「教える-学ぶ」の関係における教育する者の場に立つことであり、教育機関としての「大学」とは全く関係がない。
教育の主体S2は、欲望の対象-原因としての対象aに向けて、知のシニフィアンを送る。生徒としての受け手は、(主に飼い馴らされていない)小文字の他者aである。
この対象aは、上の図にあるように、眼差しscopiqueともされる。
教育者S2 は、「あなたの知を私に見せて!」という生徒の眼差しに促されて、いっけん中立的知の「見せかけ semblant」の装いをもって、知識を垂れ流し、生徒はその知を受けとる。
そもそも、《見せかけでない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(ラカン、S19) 。そしてラカン派における「言説」とは、フーコーの言説とは異なり、「社会的つながりlien social」を意味する。
言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。
Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)
この教育の言説において、知識を受け取った小文字の他者が生み出すものが、分割された主体$となっているのはなぜか。
生徒がよほどの馬鹿でなければ、差し出された知を鵜呑みにすることはない。生徒はいくつかある知識のあいだを揺れ動く。これが大学人の言説の産出物である分割された主体の意味であり、具体的にいえば不平不満 $ である。
大学人の言説(社会的つながり)の抑圧された真理の場には、主人S1がある。これを「隠蔽された支配欲」とも読む。その意味で、啓蒙的思想家たちの中立的知の仮装をした言説は、もしあなたに嗅ぎ分ける鼻があるなら、鼻を抓んで読まねばならない。
大学人の言説(社会的つながり)の抑圧された真理の場には、主人S1がある。これを「隠蔽された支配欲」とも読む。その意味で、啓蒙的思想家たちの中立的知の仮装をした言説は、もしあなたに嗅ぎ分ける鼻があるなら、鼻を抓んで読まねばならない。
最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
そもそも世の中には精神の悪臭にひどく鼻が利く人間とそうでない人間がいるには違いない。小さな「共同体」のなかの土人であるならば、馴れによって仲間の悪臭に不感症になる。文芸愛好家ムラ、学者ムラ、詩人ムラなどの住人が厚顔無恥な臭気を振り撒いていても恥じる様がないのはそのことに由来する。
人はニーチェほどでなくても、せめてロラン・バルトほどの鼻をもつ必要がある。
内田樹や中島義道などーー(時に)それなりに役立つことを否定はしないがーー、ひどい悪臭を漂わせた啓蒙的知識人の典型である。とはいえ彼等だけではない。
最近の日本には、ラカンから学んでいる(らしい)にもかかわらず、啓蒙書やら「勉強本」などのたぐいさえ出版する「中立的知識人」がいるが、あれは読者の嗅覚をよほど甘く見積もっている証拠か、たんなる馬鹿かのどちらかである。
どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)
内田樹や中島義道などーー(時に)それなりに役立つことを否定はしないがーー、ひどい悪臭を漂わせた啓蒙的知識人の典型である。とはいえ彼等だけではない。
最近の日本には、ラカンから学んでいる(らしい)にもかかわらず、啓蒙書やら「勉強本」などのたぐいさえ出版する「中立的知識人」がいるが、あれは読者の嗅覚をよほど甘く見積もっている証拠か、たんなる馬鹿かのどちらかである。
30歳代から40歳代の「思想家」がこのテイタラクなので、もっと下の層では次のようなことをさえ言う「ラカンお勉強家」が出現する。文明とともに《愚かさは進歩する!》(フローベール)。
片岡一竹@『稲妻に打たれた欲望』発売中!@take_one1994
夏くらいに某書店から出す入門書を今書いているのだが、ラカン入門書の決定版にしようと思っています。たぶんこれまで出た本の中で一番分かりやすいと思う……。自分的には「これ以上は簡単にできない」というレベルです。取り敢えずこれを読めば『みな妄』と『ラカン入門』が読めるはず。
この片岡君というのは、どうやら向井雅明グループの若手らしいが、はて杞憂なのであろうか・・・
『想起、反復、徹底操作』1914は、フロイトの概念化における主要な転回を示している。悲しいことに、この論文は容易に読め、転回は単純には気づかれない。ラカンは《あまりに容易に理解される》(S.3)あり方の一定のスタイルについて正当にも指摘している。あまりにも素早く理解に到るなら、理解されるのは、既に以前に知られていることのみである。(ポール・バーハウ、1999)
さて、やや話が脇道にそれたがーー大学人の言説における「真理」のS1とは「隠された支配欲」だけではなく、(ラカン派等の)「ドグマ」でもあるのでやむえないーー、以上が、教育の言説としてのわたくしの回答である。