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2015年4月9日木曜日

「女は男のサントームであるUne femme est pour tout homme un sinthome」

「女は男のサントームである」、とは、わたくしは、かつてジジェクの著書で始めて遭遇した。

象徴的秩序の出現そのものによって排除されるのは、いうまでもなくこの〈現実界〉の、不可能な享楽を具現化している〈物自体〉の、外―存在である。われわれはつねにある種のヴェルvelに囚われており、つねに意味か外―存在かという二者択一を迫られている、といえよう。意味を手に入れるためには、外―存在が排除されなくてはならない。(おそらくここには「現象学的判断中止phenomenological epoche」の経済が隠されている。外―存在をひとまず措いておき、つまりカッコにいれておき、意味の領域へと接近するのである)。この外―存在という考え方にもとづけば、もちろん女は「存在する」。つまり、意味を超えた享楽の残滓として生き続け、象徴化に抵抗する。だからこそ、ラカンの言葉を借りれば、女は「男のサントーム」 woman is "the sinthome of man.".なのである。(ジジェク『斜めから見る』1991) 

ラカンのサントームのセミネール(Séminaire XXIII)では、実際はこのように言われているようだ。

Au niveau du sinthome il n’y a pas équivalence sexuelle, c’est-à-dire il y a rapport. En effet si nous disons que le non-rapport relève de l’équivalence, c’est dans la mesure où il n’y a pas équivalence que se structure le rapport. Il n’y a rapport que là où il y a sinthome. C’est du sinthome qu’est supporté l’autre sexe. Je me suis permis de dire que le sinthome est le sexe auquel je n’appartiens pas c’est-à-dire une femme. Une femme est pour tout homme un sinthome. Pour ce qu’il en est de l’homme pour une femme, il faut trouver un autre nom, puisque le sinthome se caractérise de la non équivalence. L’homme c’est pour une femme tout ce qui vous plaira, une affliction pire qu’un sinthome, un ravage même. (Ornicar 8, p.20 ; 17 février 1976).

Une femme est pour tout homme un sinthome》とある――、ここでまず注意しなくてはならないのは、Une femmeであって、La femmeではないことだろう

すなわち、「女La femmeは存在しない」というときの〈女〉ではないということだ。

ミレール -「女La femmeは存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式……存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(ミレール『ピロポ』

そしてジジェクの記述における、すなわち《woman is "the sinthome of man."》における”the sinthome”でもないことだ(un sinthome=a sinthome)。

こういうややこしい文章を訳すつもりは毛頭ないが、英訳を貼りつけておくぐらいはしておこう。上の抜き出した原文の前段もいくらか含まれている文章である。


ここで愉快なのは、では女にとって男は何であろうか、とも問われてもいることだ。sinthomeよりもさらに悪いafflictionであるとされている。afflictionとは通常「 悩みの種,不幸の原因」だろう。

ところで、これに似たような文章をこれは最近(二年ほどまえ)に読んだことがある。

there are two striking statements made by Lacan: 'The man's symptom is his woman' and 'For the woman, the man always means ruin'. These statements can easily be verified in the psychopathology of everyday life. Both are an effect of the imaginary dual relationship.

Anyone who closely follows a man for a while will see that he always chooses the same type of woman. This means that after a certain trial period he succeeds in forcing his partners into the same mould, so that they become perfect copies of the previous woman. This explains the second statement: For the woman, the man always means ruin'. It is ruin because she is forced into a particular corset, where she is either abused or idolised. In both cases she is destroyed as a separate individual. It is no coincidence that in the wake of the emancipation movement a whole new social class has developed—the educated lonely woman. She is lonely because, unlike her predecessors, she refuses to submit to this ruin. Today, these two statements might just as well be interchangeable.For a woman, her partner is also a symptom, and for many a man, his wife is a ravager.(Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 』)

この程度の英文なら訳してもいいが、いまは慎んでおく。ただ冒頭には、「男の症状は彼の女である」、かつ「女にとっては、男はつねに廃墟を意味する」とはある。

さあて、ラカンの解釈者たちは、それぞれ勝手なことをオッシャッテクダサル。それは暇つぶしにはよいのかもしれない、たとえばジョイスのテキストのありとあらゆる解釈をひとは楽しむように。

…………

上にジジェクの『斜めから見る』から引用したが、かつて、四五度にわけて引用した文章をここでまとめて貼りつけておこう。この箇所の叙述は、ラカンの基本用語、基本テーゼを理解するのに、とてもすぐれている、と思う。ただし「基本的には」である。


…………


・象徴界のリアル化a:対象a(象徴界を発動させる「〈現実界〉における穴」)、幻想の物語が投影されるスクリーン。

・現実界の想像化Φ:享楽を物質化するあるイメージ

・想像界の象徴化S(Ⱥ):大他者(象徴秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、すなわち大他者は閉じた整合的全体としては存在しないことを示す印=現実界の小さな欠片(象徴界の究極的無意味性のシニフィアン)

・中心J:享楽の渦巻=サントーム

ーーー参照:「アンコール」における「サントーム」の図


以下、ジジェクの比較的初期の著作『斜めから見る』(1991)における冒頭の図の説明箇所(前段は、上にリンクした《「アンコール」における「サントーム」の図》にある)を続ける。鈴木晶訳からだが、一部英単語や英文をつけ加えた。そしてsymptomの訳語が「症候」になっているのを「症状」に変更した。


◆まず、存在existenceと外-存在ex-sistenceの違い。

《ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)》(フィンク,The Lacanian Subject)

ありふれた現実から突き出したこれら〈現実界〉の突出物(S(Ⱥ)、Φ、a)の存在論的地位はまったく曖昧である。それらの突出物と遭遇したとき、われわれはそれらの「現実性」と「非現実性」とを同時に感じる。あたかもそれらは「存在している」と同時に「存在していない」かのようである。この曖昧さは、ラカンにおける存在existenceという用語の相対立する二つの意味とぴったり重なるーー

★ひとつは「存在の判断」という意味での存在。われわれはその判断によってある実体の存在を象徴的に確証する。この意味での存在は象徴化、あるいは象徴的秩序への統合と同義である。すなわちじゅうぶんに象徴化されたものだけが「存在する」のである。

ラカンは「女は存在しない」とか「性的関係は存在しない」と主張するとき、存在という語をこの意味で用いている。女も性的関係もそれ自身のシニフィアンをもたず、意味作用のネットワークに登録することもできない。それらは象徴化に抵抗するからである。ここで問題なのはWhat is at stake here、ラカンが、フロイトとハイデガーを念頭において、「原初的肯定primordial Befabung」と呼んだもの、すなわち否定に先立つ肯定、「物をあらしめた」行為、〈現実界〉を「その存在の解除allows the thing to be」へと解き放った行為である。ラカンによれば、われわれがある種の現象に直面したときに経験する「非現実感」はまさしくこのレベルに位置づけられる。それは、件の対象が象徴的世界の中における自分の場所を失ったことを示しているのである。

★もうひとつは反対の意味における存在。すなわち、象徴化に抵抗する不可能的・現実界的な核として、外にー立つex-sistenceことである。こうした外―存在という考え方の最初の痕跡は、『セミネールⅡ』に早くも見られる。ラカンはそこでこう強調している。「すべての存在にはどこかひじょうにありえそうもない(本当とは思われない)ところがある。そのために、実際のところ人はたえずそれが現実なのかどうかと自問しているのです。」

象徴的秩序の出現そのものによって排除されるのは、いうまでもなくこの〈現実界〉の、不可能な享楽を具現化している〈物自体〉の、外―存在である。われわれはつねにある種のヴェルvelに囚われており、つねに意味か外―存在かという二者択一を迫られている、といえよう。意味を手に入れるためには、外―存在が排除されなくてはならない。(おそらくここには「現象学的判断中止phenomenological epoche」の経済が隠されている。外―存在をひとまず措いておき、つまりカッコにいれておき、意味の領域へと接近するのである)。この外―存在という考え方にもとづけば、もちろん女は「存在する」。つまり、意味を超えた享楽の残滓として生き続け、象徴化に抵抗する。だからこそ、ラカンの言葉を借りれば、女は「男のサントーム」なのである。

◆外-存在としてのサントームの次元

この外―存在としてのサントームの次元は、症状や幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症状として)解釈することも(幻想として)通り抜けることもできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程での最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化するidentify with the sinthomeことである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるというこの経験こそ、精神分析過程が終わったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症状ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点であるーーー

《ジョイスの精神病の言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症状ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようという試みであった。自分の症状と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。》(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, "Preface," in Joyce avec Lacan)

◆フロイトの「Wo es war, solllch werden」

象徴的効力、すなわち言説の作用的様相にたいしていわば免疫性のある、この享楽の核を分離したとき、精神分析過程は終わりを迎える。これはまた、「エスのあったところに、自我をあらしめよWo es war, solllch werden」というフロイトのモットーに対する、晩年のラカンの解釈でもある。自分の症状の〈現実界〉の中に、自分の存在の究極の支柱を認めなければならないのである。自分の症状がすでにあった場所に同一化しなければならない。その「病理学的pathological」特異性singularityの中に、自分の整合性を保証する要素を見出さねばならないのである。

◆前期ラカンの「症状」と後期ラカンの「症状」の相違

これで、ラカンがその最晩年に、「標準版」ラカン理論からどれほど遠く離れていったががよくわかる。1960年代にはまだ、ラカンは症状を「主体が自分の欲望に与える道"a way, for the subject, to give way on his desire,」と捉えていた。つまり症状は、主体がその欲望を持ちこたえなかったという事実を語る妥協的形成物compromise formation bearing であり、だからこそ、欲望の真実への接近は、解釈による症状の解消を通じてのみ可能なのである、と。

大雑把にいえば、「幻想を通り抜けるーー症状への同一化」"going through the fantasy—identification with the symptom"という公式は、われわれがごく自然に「本物の実存的立場」と信じているもの、すなわち「症状の解消――幻想との同一化」dissolution of the symptoms—identification with the fantasyという公式の裏返しである。

ある主観的な立場の「正当性」"authentic existential position," i.e.は、まさに、われわれが病的な「痙攣tics」からどれだけ解放され、「根本的・実存的投影fundamental existential project」である幻想とどれだけ同一化したか、によって計られるのではなかろうか。それとは対照的に、晩年のラカンによれば、分析が終了するのは、われわれが幻想に対して一定の距離をおき、われわれの享楽の整合性が依存している病的な特異性に同一化したときである。

この最終段階に至ってはじめて、『セミネールⅩⅠ』の最後のページにしるされた「分析家の欲望は純粋な欲望ではない」というラカンのテーゼをどう捉えたらよいかが明らかになる。分析過程が終了する瞬間、つまり分析主体から分析家への「通過passe」についての、ラカンのそれまでの説明はすべて、いわば欲望の「純化」、つまり「純粋な状態での欲望」に向けた飛躍を含んでいた。まずわれわれは症状を妥協形成物として切捨て、次いで、幻想を、われわれの享楽の枠組みとして通り抜けなければならない。したがって「分析家の欲望」は享楽を取去った欲望として捉えられた。「純粋な」欲望への到達はかならず享楽の喪失を伴う、と。ところが晩年になると、そうした視点全体が反転する。われわれは自分の享楽の特定の形式にこそ同一化しなければならない、と。

◆前期ラカンの「症状」の具体例

だが、症状への同一化というと、われわれはふつう、われわれをヒステリー化している要素を取り去る唯一の方法がそれと同一化することであるときの、「狂気」への典型的なヒステリー的反転を連想する。つまり、「やっつけられないあんら、いっしょになってしまえ」というアプローチである。これと、右に述べたような症状への同一化とどこが違うというのか。症状への同一化の、この後者のヒステリー的様式をわかりやすくするため、ふたたぶルース・レンデルの傑作短篇『ヒルガオ時計』を例に挙げよう。トリクシーという名のオールドミスが、小さな町に住む友人の家を訪ねたとき、その町の骨董屋で美しい古時計を万引きする。だが、ひとたび手に入れると、その時計はたえず不安と罪悪感を刺激する。トリクシーは、人が何気なく口にした言葉に、自分の小さな犯罪への暗示を読み取るようになる。ある友人が、最近、トリクシーの時計と似たものが骨董屋から盗まれたそうだ、という話を持ち出したとき、トリクシーはパニック状態に陥り、その友人を地下鉄のホームから突き落とし、友人は進入してきた電車に轢かれてしまう。時計のチクタクという音が耳について離れなくなる。それ以上持っていることができなくなり、彼女は郊外に出かけ、時計を橋の上から小川に投げ込む。ところがその川は浅く、橋の上から見れば誰でも時計が目に入るだろう、とクリクシーは思う。そこで彼女は小川の中に入って、石で時計を砕き、破片をあたりにまち散らす。ところが細かく砕けば砕くほど、彼女の目には、小川が時計で溢れているように見えてくる。しばらくして、近くの農場主が通りかかり、全身ずぶ濡れで、傷だらけになり、震えている彼女を水から引き上げるが、トリクシーは両腕を時計の針のように振り回して、「チクタク、チクタク、ヒルガオ時計!」と繰り返すのだった。


◆後期ラカンの「症状=サントーム」の具体例

ーーかつまた、アクティング・アウトacting outと行為への遂行Passage à l'acteの相違


この種の同一化と、精神分析過程の終了の瞬間を告げる同一化とを区別するためには、アクティング・アウトと、ラカンのいう「行為への移行Passage à l'acte」との違いを明確にしなければならない。一般的にいって、アクティング・アウトは依然として象徴的行為、すなわち〈大他者〉に向けられた行為であるが、「行為への移行」だが、「行為への移行」は〈大他者〉の次元を保留し、行為は〈現実界〉の次元へと移される。いいかえれば、アクティング・アウトは、象徴的行き詰まり(象徴化の、つまり言葉にすることの不可能性)を行為によって突破しようとする企てである。ただしその行為は依然として、ある暗号化されたメッセージの送り手として機能する。われわれはこの行為を通じて、〈たしかに「狂った」ふうにではあるが〉、ある種の借金を返済する、なんらかの罪悪感を払拭する、〈他者〉へのある程度の接近を具現化する、等々を企てる。不幸なトリクシーは、最終的に時計と同一化することによって、自分の無罪を〈他者〉に対して証明しようとする。つまり罪悪感の耐えがたい重みを取り去ろうとする。ところが「行為への遂行」は象徴的ネットワークからの退出、社会的絆の消滅を必然的にともなう。つまり、アクティング・アウトによってわれわれが同一化するのは、ラカンが五〇年代に考えていたような症状(〈他者〉に向けられた暗号化されたメッセージ)であるが、「行為への移行」によってわれわれが同一化するのは、われわれの享楽の真の核を構造化してぎる病的な「痙攣」としてのサントームである。後者の好例が、セルジョ・レオーネ監督の『ウェスタン』に登場する「ハーモニカ・マン」(演じているのはチャールズ・ブロンソン)である。少年の頃、彼はある外傷的な光景を目撃した(もっと正確に言えば、心ならずもその協力者になった)。盗賊たちが彼の肩に彼の兄をのせ、兄の首のまわりに、天井から下げた縄の輪を巻き付けた。弟はさらにハーモニカを吹きつづけるように命じられた。彼が疲れ果てて倒れたとき、兄は宙ぶらりんになって、首がしまり、死んだ。以後、弟は一種の「生ける死者living dead」として人生を生きることになる。彼は「正常な性関係」をもつことができず、ふつうの人間の感情や恐怖のサイクルを超えたところで生きる。彼が「発狂」してgoing nuts自閉症的なカタトニーautistic catatoniaに陥るのを食い止め、彼になんとかある程度の整合性を保たせている唯一のものは、彼の独自の「狂気」、特殊な形の「狂気」、すなわち症状=ハーモニカとの同一化である。友人のチェイエンヌは彼についてこう言う。「彼は話すべきときにハーモニカを吹き、ハーモニカを吹いたほうがいいときに口を開く」。誰も彼の名前を知らず、彼はいつでもたんに「ハーモニカ」と呼ばれている。外傷的な光景の責任者である盗賊のフランクから名前を訊かれると、彼は、自分が復讐したい死んだ男たちの名前を挙げる。ラカンの用語を使えば、ハーモニカ・マンは「主観的窮乏subjective destitution」を経験したのであり、彼には名前がない(レオーネの最後の西部劇作品のタイトルが『マイ・ネーム・イズ・ノーボディ』であるのはおそらく偶然ではない)、つまり彼をあらわすシニフィアンがない。そのため彼は症状との同一化を通じてのみ整合性を保っているのである。「主観的窮乏subjective destitution」によって、真実に対する彼の関係そのものが根本的な変化をこうむる。ヒステリー(およびその「方言」である強迫神経症)においては、われわれはつねに真実の弁証法的な運動に参加する。だからこそ、ヒステリー的発作の絶頂におけるアクティング・アウトは依然として真理の座標によって決定されているのだが、「行為への移行」はいわば真実の次元を保留する。真実が(象徴的)虚構の構造をもっているかぎり、真実と享楽の〈現実界〉とは両立できないのである。


◆政治的な「症状との同一化」

おそらく政治の世界においても、一種の「症状との同一化identification with the symptom」を必然的にとまなうような経験がある。よく知られている、「われわれはみんなそうだ!We are all that!」という感傷的な pathetic経験だ。それはすなわち、耐えがたい真実の闖入として、すなわち社会的メカニズムは「機能しない doesn't work」という事実の指標として、機能する functionsある現象に直面したときの、同一化の経験である。たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。これらの例について、次のことを明らかにしておかねばならない。「症状との同一化identification with the symptom」は「幻想を通り抜ける "going through the fantasy“」ことと相関関係にあるということである。(社会的)症状へのこうした同一化によって、われわれは、社会的意味の領域を決定している幻想の枠、ある社会のイデオロギー的自己理解を横断し、転倒する traverse and subvert the fantasy。その枠の中では、まさしく「症状symptom」は、存在している社会的秩序の隠された真実の噴出の点としてではなく、なにか異質で不気味なものの闖入 some alien, disturbing intrusionとしてあらわれるのである。(ジジェク『斜めから見る』 p253-260 鈴木晶訳