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「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」にて、母のファルスが想像的ファルスであることを示すために、ジジェクの文を英文のまま貼り付けたが、怠慢をおかさずに、ここでその前段のいくらかも含めて、まず訳出しておこう。
ラカンが想像的領域imaginary registerについて語ったとき、彼は見ることができるイメージについて話していた。……しかし、いったん象徴的なものが導入されても想像的なものについて話すことをやめた分けではない。彼は想像的なものについて、相変わらず多くのことを語った。しかしその定義を全く変化させた想像的なものについてである。象徴的なものの導入後の想像的なものは、導入前の想像的なものとひどく異なる。…
想像的なものの概念はいかに変形したのか、象徴的なものの導入された後に。まさに正確に次の如し。想像的なものの最も重要な箇所は、見ることのできないものとして、である。特に、臨床診療の中心を取り上げるなら、例えば、セミネールIVの「対象関係」で展開されたのは、女性のファルス、母のファルスである。人はそのファルスを見ることができないのに、母のファルスを想像的ファルスと呼ぶのはパラドックスである。すなわちそれは、ほとんど想像力の問題なのである。
ラカンの名高い鏡像段階における観察と理論化において、ラカンの想像的領域は、本質的に知覚とリンクされていた。ところが象徴的なものが導入されたこの今、想像的なものと知覚の分裂がある。そしてこの想像的ものは、何らかの形で、想像力とつながっている。これが意味するのは、想像的なものと象徴的なもののつながりであり、故にそれは知覚から分離したものという命題である。「イメージは見られないもののためのスクリーンである」(Jacques‐Alain Miller, “The Prisons of Jouissance,” 2009)。
母のファルスは、定義上、ヴェールで覆われたものである限り、これは、肯定的/構成的なヴェールの存在論的機能をもたらす。すなわち、イメージ/スクリーン/ヴェール自体が、その裏に何かが隠されているという錯覚illusionを生む。日常的にヴェールという語彙を使うとき、いつも「何かが想像力に残されている何か」があるのと同様である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)
ここにあるヴェールについては、同じ書の別の箇所に次ぎのような叙述がある。
「見せかけsemblance」の鍵となる公式は、ジャック=アラン・ミレールによって提案された、「見せかけは無の仮面(ヴェール)である」と(Jacques‐Alain Miller, “Of Semblants in the Relation Between Sexes,” 1999)。ここには、もちろんフェティッシュとのリンクが提出されている。すなわち、フェティッシュとはまた空虚を隠す対象である。見せかけ(サンブラン)は、ヴェールのようなものであり、無をヴェールで覆う。ーーその機能は、ヴェールの裏には隠された何かがあるという錯覚illusionを生み出すことである。(同『LESS THAN NOTHING』)
ジジェクはヴェールに拘る。あるいは仮面に。たとえば次ぎのような発言がある。
――仮装服として何を選びますか?
私の顔に、私の顔の仮面を着ける。そしたら、みんな私の振りをしている誰かで、私ではないと思うだろ。(ジジェクの愛の定義)
『LESS THAN NOTHING』には、ヘーゲルとラカンのインプリシットな見解だとして次ぎのようにさえ言う。
「神はヴェールである」という表現は、二つの相反する内容を統合するヘーゲルのスペキュラティブ判断として読まなければならない。(1) 神は、われわれの想像力がヴェールの裏にある空虚を埋める究極的な夢想reverieである。 (2) 神は究極の創造的力である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
ーーとすれば、〈女〉は神であろうか?
ラカン自身の言葉(女性の仮装性)を掲げれば次ぎの如し(「ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない」より)。
女性が自分を見せびらかし、自分を欲望の対象として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、《他者》の欲望のシニフィアンとして位置づけます。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[mascarade]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけますが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからです。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついています。(ラカン『セミネールⅤ』)
男性を女性へと結びつける魅力について想像してみると、「仮装した人」として現れる方が優勢であることを我われは知っているからです。仮面の仲介を介してこそ男性と女性は疑問の余地なくもっとも激しく、もっとも情熱的に出会うことができるのです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
ーーとはいえ、前期ラカン、すなわちセミネールⅤの段階では、ラカンはファルスと対象aの区別がまだできておらず、この文をそのまま受け取る愚は避けなければならない。たとえば、後年では、ファルス(象徴的ファルスΦ)と対象aは次のような位置づけがなされている。
(アンコールに第八章冒頭) |
対象aはサンブラン(見せかけ)となっている。とすれば、女性の仮装とは、対象aではないか?
だが、ラカンの英訳者Russell Grigg(フィンクなどとの共訳がある)は、次のように書いている。
ジャック=アラン・ミレールは、見せかけsemblantsの機能が「無を覆う」こととし、かつまたこの無を何かに変換すると言う。ヴェールすることの機能と、またわれわれの注意がまさにこのヴェールすることに惹きつけられるという定義には、見せかけの二重の局面が現われている。ミレールは更に次ぎのように言う。この見せかけの二重の側面のため、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化されるthis double aspect of semblants that as a semblant the veil phallicizes, and phallicizes the body in particular、と。
しかしながら注意しよう、見せかけはファルスではないことに。見せかけは、私は次ぎのように理解すべきだと促したいのだが、それは満足のソースとしての二つの特徴をもっている。対象の代用品ーー存在しないものとして代用品ーーとして認知されてさえも、それ自身、満足の対象なのだ。無を覆い、しかしこの無を何かに変換するものとしてのファルスの場合、欲望される対象を生みだす対象the object causing the desired objectはヴェールを超えた無から創造された対象である。見せかけはフェティッシュな対象の側にあり、他方、ファルスは仮装性の側にある。(The Concept of Semblant in Lacan's Teaching • .........Russell Grigg)
かなり前から引っかかっている小論なのだがーージジェクもこの論を『LESS THAN NOTHING』にて引用しているにもかかわらず、この《見せかけ semblantはフェティッシュな対象の側にあり、他方、ファルスは仮装性masqueradeの側にある》については、何も語っていない。
ワカランネ、なぜここで仮装性という語が出て来て、サンブランと区別されるのか?おそらく、ミレールの表現、《ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化される》を批判しているのだろうが、ここでの「ファルス」に関しても、よくわからない。なにがよくわからないかを言いたくないぐらいわからない。
ーーということで、ジジェクの書から次ぎの文を貼り付けて(またしても英文のまま)、また誤魔化しておく。
Lacan defines Vorstellungs‐Repräsentanz as the representative of the missing binary signifier, the feminine Master‐Signifier which would be the counterpart of the phallic Master‐Signifier, guaranteeing the complementarity of the two sexes, each at its own place—yin and yang, etc.(LESS THAN NOTHING)
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さて、表題を「パラシオスとヴェール」としたのだから(実は、いったん「女は神である」との表題にしようとしたのだが思い留まった)、ここで次ぎの文を--やや長いがーー、貼り付けておかねばならない。
ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけappearanceとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白するーーー自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。
妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造し、つまり二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなくてはならない。
これこそが最も純粋な見せかけappearanceである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕deceiving screenを張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけsemblanceである。
見せかけsemblanceとは、その下に<現実界>を隠している仮面 maskのことではなく、むしろ仮面の下に隠しているhidden behind the maskものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見appearanceではなく、この眼も眩むような外見appearanceは何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。
このような二重の欺瞞の構造を説明するために、ラカンは、古代ギリシアの画家ゼウキシスとの、どちらがより真に迫った騙し絵を描くことができるかという競争を引き合いに出す。ゼウキシスはすばらしくリアルな葡萄の絵を描いたので、鳥が騙されて突っつこうとしたほどだった。パラシオスは自分の部屋の壁にカーテンを描いた。訪れたゼウキシスはパラシオスに「そのカーテンを開けて、何を描いたのか見せてくれたたまえ」と言ったのだった。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みなカーテンの後ろには真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。
ラカンにとって、これはまた女性の仮装の機能でもある。女性は仮面をつけ、われわれ男性に、パラシオスの絵を前にしたゼウキシスと同じことを言わせる……「さあ、仮面をとって、本当の姿を見せてくれ!」(……)
男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。
ふりをするpretendingという行為がひたすら女性的な行為であることを説明するために、ラカンは、自分がファルスphallusであることを示すために作り物のペニスを身につけているwears a concealed fake penis女性を引き合いに出す。
ーーーこれがヴェールの背後にいる女性です。ペニスの不在が彼女をファルス、すなわち欲望の対象にします。この不在をもっと厳密に喚起すれば、つまり彼女に、仮装服の下に可愛い作り物のペニスをつけさせれば、あなたがたは、いやむしろ彼女はきっと気に入るにちがいありません。(エクリ)
この論理は見かけ以上に複雑である。それはたんに、偽のペニスが「真の」ペニスの不在を喚起するということだけではない。パラシオスの絵の場合とまったく同じように、偽のペニスを見たときの男の最初の反応は、「そんな馬鹿げた偽物は外して、その下にもっているものを見せてくれ」というものである。かくして男は偽のペニスが現実の物であることを見落としてしまう。女が「ファルス」であることは、偽のペニスが生み出した影、つまり偽のペニスの下に隠されている存在しない「本物の」ファルスの幽霊である“phallus” that the woman is, is the shadow generated by the fake penis, i.e., the spectre of the non-existent ‘real’ phallus beneath the cover of the fake one。まさしくその意味で、女性の仮装は擬態の構造をもっている, the feminine masquerade has the structure of mimicry。というのも、ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。パラシオスと同じく、私は模倣するのは葡萄ではなく、ヴェールである。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」(エクリ)。ファルスの地位そのものが擬態の地位である。ファルスは究極的に人間の身体にくっついているいぼstainみたいなもので、身体にふさわしくない過剰な特徴であり、だからこそそのイメージの背後には真理が隠されているという錯覚を生むのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳ーー所々の英文、英単語は原文からつけ加えた)。
ここでの「ファルス」は、象徴的ファルスではなく、想像的ファルスだろう(参照:母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢)、いや断言はしまい。今のところのわたくしの理解ではそうである。
……女性の側には、シェイクスピアの問い「あるべきかあらざるべきか」にかかわる。ファルスを持つかわりに、彼女は自身をファルスの化身として顕す。実に、他者の欲望への応答として、彼女は自身を顕現させるのだ。オットー・フェニケルが最初にそのファルスとしての少女に関する古典的論文にて、この化身を見出した。
彼女は男が必要とするファルスなのだ。この状況の結果は、女は男の判定にひどく依存するようになる。男の承認を通してのみ、彼女は、効果的に欲望の対象となる。すなわち想像的ファルスになる。こうやって、典型的な女性の仮装性とそそのかしが生じる。この依存性に含まれる意味は、この点における典型的な女性の情動が、この承認の喪失への不安であるということだ。不安、すなわち、もう欲望されないことの不安である。このエディプスの発展から、男と女はじつに異なるようになる。フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「ひとは男と女の合いは心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。(Paul Verhaeghe『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 )
(おそらく続かない、行き詰まり気味だ)