ラカンのいわゆるジョイスのセミネール(サントームのセミネール)は、次のように始まる。
サントームsinthomeとは、最近、症状symptômeと綴られるようになったものの古い書記です。(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)
かつまた、サントームは、音の上では saint homme : 聖なる人間,つまり聖人と同音である。そして、さらには、聖トマスSaint Thomas をも想起させる(ポール・ヴェルハーゲ)。聖トマスとは、〈大他者〉――キリストーーを信ぜず、独自の道を歩んだ者としておこう。
※これだけではなく、たとえばsin-homme(罪の人)、synth-homme,(模造人間、人工的に自己-創造した人間)などを提示する論者もいる。
※これだけではなく、たとえばsin-homme(罪の人)、synth-homme,(模造人間、人工的に自己-創造した人間)などを提示する論者もいる。
だから、サントームを単純に聖人と結びつけて解釈してしまうのには、いささか抵抗がある。
Lacan が Joyce との関連で用いた sinthome には saint 「聖人」が含まれています.ですから,sinthome は sainthome と書くことができます.発音は全く同じです.ですから「症状」は「聖状」となるのです.このばあい「聖」の字は「聖人」を「しょうにん」と読むときのように読んでください.「聖状」は,ですから「しょうじょう」です.それが sinthome の訳語です.「聖状」は聖人 saint として実存することです.それは,存在の真理 φ を,仮象で覆うことなく,そのままに ex-sister させることです.(小笠原晋也 ツイッターセミネールより)
ラカンは、「テレビジョン」でこう言っている。
実をいうと、聖人は自分に功徳があるとは考えません。だからといって、彼が道徳を持っていないというわけではありません。他の人たちにとって唯一困るのは、そのことが聖人をどこに運んで行くのかわからないということです。
私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこに到達していないからに違いありません。
聖人となればなるほど、ひとはよく笑います。これが私の原則であり、ひいては資本主義的ディスクールからの脱却なのですが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならないでしょう。
そもそも、ラカンが「聖人」と言い出したときに、ニーチェの《わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ》(『この人を見よ』)を想起していなかったなどということは考えられない。というのは、ラカンはニーチェの名を出すのは稀だったにしろ、ニーチェのパクリのようなことを言っているときがあるのだから。
ラカン曰く、《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである》(『同一化セミネール』)。そしてニーチェ曰く《真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか》(『善悪の彼岸』)。
さらにはまた、わたくしは、ラカンの「女性の論理」(非-全体の論理)の真の起源は、ニーチェからではないかと疑っているのだが、とはいえ、いまは「聖人」の話である。
わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)
とはいえ、小笠原晋也氏のサントームの訳語「聖状(しょうじょう)」は優れている。彼にユーモアがないのはいたしかたない。2002年の事件を経て、「復活」した者として斟酌しなければならない。彼はラカンの全般的な解釈者としても、わたくしには”ヒドク”優れているように思われる。
たとえば、次のようなことをオッシャルが、これもーーシツレイながらーー許容しなければならない。
聖書は sinthome であるか?勿論です!
無からの創造は,死からの復活と等価です.
Lacan が sinthome と呼ぶものは,そのような無からの創造,死からの復活としての症状だ,と考えられます.
聖書の物語は神話です.神話は,不可能在としての実在 φ を保匿するために,φ から出発して為されるひとつの創造です.そのような神話として,聖書はひとつの sinthome である,と言えます.
逆に言えば,Joyce の Finnegans Wake はひとつの聖書です.なにしろ,Finnegans Wake の主題は死と復活なのですから.ただし,Finnegans Wake が聖書ほど長期にわたる best seller になるとは思いませんが.
Lacan は Joyce を sinthome と呼びましたが,Jésus Christ こそが「元祖」sinthome です.
Jacques-Alain Miller によれば,Joyce に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptôme とも書きますが —,症状は,精神分析の過程において解釈不可能なものとして残った残渣である.
この説は,わたしも Jacques-Alain Miller の講義や講演で何度も聞いています.Lacan 自身,reste, 残りもの,残渣という表現を用いています.
しかし,では何故 Lacan はわざわざ Joyce を取り上げたのか?芸術作品を創造する者としての Joyce を?
Lacan は,芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」 creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.
これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」 resurrectio ex mortuis を想起させます.創造は無から,復活は死から.
Joyce が作家であり,かつ,sinthome, つまり聖人である,ということは,無からの創造と死からの復活が同じ構造のものであることを踏まえて,初めて理解され得ます.
されば,sinthome としての症状は,単なる残渣ではありません. 「分析は,終わりまで突き詰められる必要は無く,分析不可能なものをカスとして残しておいて良い.それが Lacan が sinthome と呼んだものだ」という理解は間違っています.