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2015年5月9日土曜日

「傑作に面した窓」(プルースト)

偉大な音楽家についていえば(ヴァントゥイユがピアノを弾く場合がそれにあたると思われるのであるが)、その演奏は、弾いている芸術家がピアニストであるなどということを全然人に意識させなければ、それだけ偉大なピアニストの演奏だといえる、なぜなら(そんな演奏は、あちこちではでな効果でかざるあの華麗な指づかいの努力とか、また手がかりをもたない聴衆が、具体的にとらえうる演奏家の実際の動作のなかに、すくなくとも才能を見出すような気持になるあの音をとびちらせるようなめまぐるしさとか、そういうものをいっさい介入させないので)、その演奏は、じつに透明であり、彼の解釈によるものに満ちていて、もはや彼自身の姿を聴衆は見ないのであり、彼はもはや一つの傑作に面している窓にすぎなくなっているからである。((プルースト「ゲルマントのほう 一」井上究一郎訳 p56)

こういったピアニストを選ぶとしたら、誰をあげたらいいだろう、--まさかグールドをあげるわけにはいかない(あげたい気持でいっぱいだが)。ではリパッティ? いや今はYouTubeを貼り付けるのはやめておこう。

最後のパラドックス。それは彼自身だ。主観性の敵、匿名性の賛美者であるはずなのに、この人の演奏を二小節ばかり聞けば、ほかのピアニストのあいだにあってもすぐにそれと見分けることができる。(ミシェル・シュネデール グールド論)

とはいえ、グールドの1957年5月12日のモスクワ、1959年8月25日のザルツブルグ演奏旅行においては、奇跡が起こっている。すなわち至高の「傑作に面した窓」の刻限がある。




Glenn Gould in Russia 1957 (Bach, Beethoven, Berg, Webern, Krenek)
…………




ーーこの4人の演奏家の録音を聴くと(録音状態にもよるだろうが)、カザルスのすばらしさは響きではけっしてないことが分かる。

…ラ・ベルマの声は、その声帯のどんな隅々にまでも微妙に溶けこみ、まるで大ヴァイオリニスト奏者の楽器のようになっていたのであって、そうした大演奏家が美しい音をもっていると人がいうとき、ほめられているのは、物理的特性ではなくて、魂の優越性なのである、……(同プルースト p57)




指が叩き出す音と声が出す音がこうして重なり合っても、かならずしもそのことでグールドが歌を口ずさむ音楽家として特殊な例となるわけではない。指揮者ならばトスカニーニ、セル、バルビローニなどがいたし、演奏家ではゼルキンがいた。いずれも息と声を押し殺したりはしない人々だ。カザルスはときに木こりが丸太を切るときにあえぎを上げるように弓を運びに合わせて声を上げることがあった。だが抑えがたい歌はグールドの場合とにかく極端であって、ついには顔とピアノの周囲に立ち並んだマイクのあいだに声を吸収する一種のフィルターを設置せざるえなかなった。(ミシェル・シュネデール グールド論)

これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編
Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない(同)

カザルスはどんな風にバッハの平均律を演奏したのだろう? タチアナ・ニコラーエワのように?





あるいはナウモフのように「祈り」ながら?





ところで、文章にも「傑作に面している窓」ということが言えるだろうか。まさか? 文章は原典がない。ところが、こういうことを言う人がいる。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)
書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの場所』)
私はひとり、でも声があらゆるところで私に語りかけてくる。そこで・・・ この溢れ出すような感覚をほんの少し知らせようとしているの。長いこと、私は、あれを外部の声だと信じていたけど、今ではそう思っていない。 あれは私なのだと思う。 (『マルグリット・デュラスの世界』)

…………

音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)





「なぜ我々は音楽を聴くのか?」 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためだ。リルケが美についていったことは音楽にも当てはまる。すなわち、ルアー、スクリーン、最後のカーテン、それが我々を(声の)対象の恐怖に直接に遭遇することを守ってくれる。入り組んだ音楽のタペストリーが分解し崩れ落ちて、純粋な分節化されないままの叫びに陥ったとき、我々は対象としての声に接近する。この正確な意味にて、ラカンが指摘したように、声と沈黙は図と地に関係する。沈黙は(人が考えがちのように)、声の「図」が出現する「地」ではない。全く反対に、反響する音自体が、沈黙の「図」を可視化する「地」を提供するのだ。(ジジェク『私は、私の眼で、あなたを聴く』Slavoj zizek, "I Hear You with My Eyes"; or, The Invisible Master)

静かさというのは物音と物音との、落着いた遠近のことらしい。近い物は近く聞え、遠い物は遠く聞え、その中を近づいてくる音、遠ざかって行く音が自然に耳でたどれる、おのずと耳でたどっている、そんな空間のことらしい。あるいは揺ぎなく、遅速なく、目で測れるように流れる時間、のことかもしれない。近づいてくるのが、生命を脅かすようなものでも、そんな時、人は静かと感じるようだ。

遠近の失われた静かさというものはある。何もかも等しなみに鮮明に、あるいは朧気に映る。あるいは時間があまりにも早く、あまりにも遅く流れる。外の力にもはや反応できなくなる。あるいは自分自身の行為からふっと離れてしまう。そんな時、人はやはり静かと感じるようだ。長閑とも感じる。しかしその長閑さは、どうやら根に叫喚をふくんでいる。声にならぬ叫喚、そのものかもしれない。考えてみれば、遠近を狂わせるものは、恐怖なのだ。

無音と呼ぶべきものもあるようだ。音がないわけではない。音への関係が失われているのだ。そんな時、人はとかく、物音の侵入に悩まされているように思いこむ。数ある中で、特定の物音に、はてしもなくこだわる。じつは、その音の立つのをひっそりと待っていて、偏執的に抱きしめるのだ。

人はそれぞれ固有の静かさを、死病のようなものとして、身体の内に抱えこみ、小心に押えこんでいるのかもしれない。無音の中では、その静かさがふくらみそうになるので、縁もない物音にひたすらこだわって、むりやり関係をつないで、紛らわそうとする。(古井由吉『哀原』池沼)