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2015年6月26日金曜日

「もし私が何者かということがあるなら、唯名論者じゃないことははっきしているよ」

「世界は存在しない、一角獣は存在する」マルクス・ガブリエルというまだ若い哲学者の言葉にツイッターで行き当たった。といってもこの哲学者に興味があるわけではない。ただ実在論/唯名論の話(普遍論争)を思い出したのでメモ(そもそもマルクス・ガブリエルの言葉がそれに関係があるのかも分からないが、なんだかノミナリズムに似ているな、と思ったわけだ)。

……たとえば、中世以来の「普遍論争」では、普遍(一般というべきであるが)と個物(特殊)のいずれが先行するかが争われてきた。普遍が先行するというのがリアリズム(実在論)であり、特殊が先行するというのがノミナリズム(唯名論)である。この議論は、集合論的にいえば、個々のものがあったうえで、集合が形成されるのか、集合が先行するのかということである。たとえば、個々の犬があって、犬という概念が形成されるのか、それとも犬という概念があって個々の犬が見いだされるのか。

この議論は、感覚が先行するという経験論と、概念が先行するという合理論との対立として変奏された。周知のように、カントは、これらの対立を、われわれは世界(もの自体)を感性によって受容し且つ先験的な形式によって構成するというふうに統合した。しかし、すでにこの時点では、固有名の問題が忘れられている。ノミナリストが一般概念に対置したのは、本当は、個物(特殊)ではなく、あるいは感覚や経験ではなくて、固有名なのだ。そのかぎりで、ノミナリズムの正当性がある。(柄谷行人『探求 Ⅱ』P23)

こう引用してみると、一角獣(固有名)は存在するというのは、柄谷行人のいうノミナリズムに似ていないでもない。

ところで「実在論と唯名論」については、なんと、かの池田信夫氏が、ドゥンス・スコトゥスの実在論とオッカムなどの唯名論の名をだして「華麗に」まとめている(わたくしのような無知のものは、池田信夫という固有名に抵抗をしめさずのぞいてみることをおすすめする)。

ーーというわけで、わたくしはすこしまえ訳してほうっておいた次の文を、この機会に貼りつけておくことにする。

もし私が何者かということがあるなら、ノミナリスト(唯名論者)じゃないことははっきしているよ。何が言いたいかといえば、私の出発点は、名前はネームプレートのような何かではないことだよ、リアルの上にそれ自体にくっ付いているようなね。そして人は選択しなくちゃならない。もし人が唯名論者だったら、弁証法的唯物論を完全に放棄しなくちゃな。…

ポイントは、中世の実在論者の意味での実在論者であることじゃない。普遍性の実在論という意味でのね。ポイントは次のことを強調することだな、我々の言説、我々の科学的言説は、見せかけsemblantの機能に依拠する限りのみ、唯一リアルを見出すことが出来るということだ。

何がリアルかといえば、この見せかけsemblantに穴を開けることだよ。この科学的の言説であるところの分節化された見せかけにね。……(Lacan, Le séminaire, Livre XVIII: D'un discours qui ne serait pas du semblant, )

ジジェクの『LESS THAN NOTHING』からの孫引きだが、彼はこの文を引用してこう記している。

象徴界の彼岸に現実界があるのではない。

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)


…………

※附記:とくに意図があるわけではないが、たまたまEVERNOTEの引き出しのなかに入っていたので、ここに記載。

クセナキスの音楽に惹かれてピアノ曲を委嘱したら、『ヘルマ』の楽譜が送られてき た。確率論と集合論を勉強するように言われ、確率論からはじめ、電子音楽『フォノジェーヌ』もクセナキスとはちがう、自分で考えた確率論的方法で作曲し た。その後ヨーロッパでは数理論理学の本をよんだ。ウィトゲンシュタインの『論理哲学要綱』では、論理学からはずれて存在のふしぎに向かっていく後半が好 きだったし、ブローウェルの直感論理学やクワインに興味を持った。排中律の否定と、この黒犬やあの白犬がいるばかりで「イヌ」というものは名前にすぎない という唯名論に共感していた。( 方法からの離脱  高橋悠治 )  
論理的に一貫したrealismに対して、“唯名論 nominalism”的思考の方が、日本人には受け入れやすい。養老孟司の本がこれだけ売れるのも、唯名論的な無常感が日本人の琴線に触れるからではないかと思う(もっとも養老が唱えるのは、「唯名論」ではなく「唯脳論」だが……)。(桂川潤

ーーと引用すれば、ふたたび柄谷行人に戻ることになる。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」

経験論がドミナントである日本という国では、ことさら合理論が必要であるということになるのだろう。

重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしに存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)