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2016年11月30日水曜日

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある

質問をもらっている。

何度か繰り返しているが、小笠原晋也氏のラカン解釈は、ごく初歩的な出発点から間違っている。すくなくとも彼のように欲望と享楽の相違を解釈しているラカン派は(私の知る限り)世界にひとりもいない。

@ogswrs Lacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.

その最も基本的な出発点からの誤謬は、次の文の解釈である。

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E.853)

小笠原氏の解釈は次の箇所を見よ→「2016年03月17日(木)、ツイート

まずなりよりも、上の一文だけでいい。彼のように解釈しているラカン派が世界中にほかにひとりでもいるなら、それを示してほしい。わたくしの言いたいのはそれだけだ。

以下、ミレールによる小笠原氏と正反対の解釈。

◆ミレール、ラカンのテキストについての注釈1994より(「ミ レールのセミネール」 (Word 56KB)

ーー「フロイトの欲動精神分析家の欲望について」についての読解

このミレールの1994年注釈の基本は、2011年、L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller でもより鮮明な形で強調されている(参照:基本版:現代ラカン派の考え方

ラカンのテクスト「フロイトの〈欲動〉と精神分析家の欲望について Du «Trieb» de Freud et du désir du psychanalyste」(1966,初出1964)は、欲動と欲望とのあいだの区別を強調することを目的としています。

ラカンは初めにフロイトの欲動と精神分析家の欲望について語っていますから、このことは分かりにくくなっています。それでもなお、このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits, 1958)においてこの二つを混同していたのです。

以前に私がコメントした文章を、このテクストに見つけることが出来ます――

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――大他者であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネール VII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である《モノ das Ding》を経由して、この論文で取り上げられています。

このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています《 La libido n’est pas l’instinct sexuel. Sa réduction, à la limite, au dé­sir mâle, indiquée par Freud, suffirait à nous en avertir》( E851)。

なによりもまずそれは量化できるエネルギーであるからであり、そしてそのセクシュアリテは《空虚の色 couleur de vide》(E851)だからです。このイメージによって指摘されていることは、フロイトの欲動は両性間の関係に自然に記入されてはいないという趣旨です。欲動のそれ自身の満足への関係が大他者の性に関与していないことは明らかです。

………

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている suspendue dans la lumière d'une béance》(E851) と言いますが、これがその理由です。このイメージによってラカンが言おうとしているのは、欲動と-φと書かれる裂け目との関係です。

《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う Cette béance est celle que le désir rencontre aux limites que lui impose le principe dit ironiquement du plaisir》(E851)とラカンは言っています。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味しています。

言い換えれば、欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値 la valeur de la jouissance があります。《欲望の難所は本質的に不可能性である le freudisme coupe un désir dont le principe se trouve essentiellement dans des impossibilités》(E852)とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。これは何を意味しているのでしょうか?

ラカンはそのような欲望に現れている「否定」を際立たせています。それは侵犯 transgression の諸幻想を呼び起こすところまで進みます。フロイトの著作において、《欲望が禁止によって設立されている…institue par l'interdictionn… le désir est accroché à l'interdit》( E852)とラカンが言うことができるのは、このような意味においてです。これが、ラカンがエディプス・コンプレックスを取り上げるやり方です。

事実として、禁止、つまりよく知られた近親相姦の禁止は、何よりもまず、母の欲望 desir de la mere を満足させることに対する禁止へと形を変えます。それが享楽の《シニフィアンの禁止 l'interdir signifiant》についての隠喩であると、ラカンはセミネール VII で既に言及していました。

近親相姦の禁止が意味するのは「汝は汝の極上の享楽に到達してはならない」ということです。この物語において反響するのは、享楽それ自体にのしかかったシニフィアンの禁止です。この観点からラカンは、欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、それゆえ欲望の主要なシニフィアンが -φ であることを強調しています。欲望はつねに欠如によって設立されます。それゆえに、欲望は法と同じ側にあるのです。


侵犯の諸幻想について語れば語るほど、欲望の対象がまさに禁止された対象であると言ってしまうように導かれ、欲望が法に従属しているという事実を際立たせることになります。欲望は法に従属している 《 Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi》(E852)――これはこの短いテクストで公式化される重大な要点です。これが、欲望は大他者からやってくるということの意味です。

しかし、欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。この新たな概念の分割において、享楽は禁止に繋がれてはいません。

欲動は禁止についてそれ以上考えることができません。つまり、欲動は禁止については何もしらず、禁止を破ることなど夢にも思わないのです。欲動は自身の性向を追い、つねに満足を得ます。一方、欲望は「彼らは私がそれをすることを望んでいる、したがって私はしたくない」「私はそっちに行くように想定されていない、だから私が行きたいのはそっちなのだ。しかし、最後の最後でそうすることはできなくなるだろう」などと考えて気を重くしています。

言い換えれば、欲望の機能は従属と動揺の両方において現れており、去勢、享楽の去勢に密接に関係したものとして自らを現しています。欲望の主要な記号が -φ である理由はこれなのです。

享楽を具体化するものは何なのでしょうか? どのようにして享楽はこの弁証法に具体化されるのでしょうか? ここでのラカンの答えは、享楽はトカゲが自分自身を切断する〔災難にあったときに自らの尻尾を切る〕場合と同じように具現化される《…symboliserait au mieux l'automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse》 (E853)ということです。言い換えれば、享楽は失われた対象に受肉化されるのです。

そして《利益と損失を含んだ passer par profits et pertes》(E853)それら全ての対象は、ラカンが言うように-φの格納場所 place holders なのです。言い換えれば、ここで私たちは a/-φ という主要な公式を提供することが出来ます。この公式は、欲望は -φ に繋がっており、一方で享楽は対象 a に繋がっているということを意味しています。

a ◇jouissance[享楽]

-φ ◇desir[欲望]

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。《享楽の垣根における欲望の災難 Mesaventure du desir aux haies de la jouissance》(E853) とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。

欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが -φ の素晴らしい表現であり、また、対象 a の表現でもあることを認めなければなりません。対象 a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで《同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される c'est que les identifications s'y déterminent du désir sans satisf aire la pulsion》(E853)とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。

※付記

①ほかのラカン注釈者もふくめた見解のひとつ→「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

②比較的よく読まれている欲望/享楽をめぐる最も基本的論文を三つ掲げておく。

A:Braunstein jouissance and Desire(PDF)

B:Frédéric Declercq CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE:(PDF)

C:Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013


わたくしにとっての決定版は、Cのコレット・ソレールのものだが(仏文)、英訳もネット上に落ちている。とはいえこの(平易な)インタービュー記事は、貴君のように基本的なところをおさえていない人物だと、何を言っているのかわからないかもしれない。

それぞれ解釈者によって微妙な差異はある。だが出発点はみな同じ。

Braunsteinの論文は次のように始まる。

On 5 March I958, the theory, the technique,·and the history of psychoanaly-sis were substantially changed. This change came about almost unnoticed by anyone, perhaps even unnoticed by Lacan himself, who could not have predicted where the path he had undertaken would lead.

ラカンのエクリとは、この 5 March I958よりも前に書かれたものが大半であり、だからナイーヴに読むと、そしてエクリに耽溺してしまうと、「小笠原病」の類が発生するのかもしれない。

Braunsteinは、上のように記したあと、ラカンのセミネールⅤ(5 March I958)を引用しているが、その箇所の原文は次の通り。

Aujourd'hui, ce n'est pas tellement cela que je vous rappellerai une fois de plus… encore que nous devions y revenir pour en repartir …mais je vous montrerai ce que signifie dans une perspective rigoureuse, celle qui maintient l'originalité de la condition du désir de l'homme, ce que représente pour lui ce quelque chose qui toujours pour vous est plus ou moins impliqué dans le maniement que vous faites de cette notion du désir et qui mérite d'en être distingué.

Je dirai plus : qui ne peut commencer d'être articulé qu'à partir du moment où, ici, nous sommes suffisamment inculqués de la notion de complexité dans laquelle se constituent ce désir et cette notion dont je parle, qui va être l'autre pôle du discours d'aujourd'hui, elle s'appelle la jouissance. (Lacan, S.5, 05 Mars 1958)

人間の欲望を条件づけるオリジナリティl'originalité de la condition du désir de l'homme ……人間にとってのこの何かを表象するもの、それは常に多かれ少なかれ、あなたがたが欲望概念を扱うやり方において絡み合っているものだが、それは欲望概念から区別されるに値する notion du désir et qui mérite d'en être distingu、という意味合いのことを言っている。


私はさらにこう言おう。欲望と私が話しているこの概念を構成している複合概念に十全に入り込む時がなければ、分節化を始めることさえできないと。今、言説の別の柱であるもの。それは享楽と呼ばれる。

Frédéric Declercq論文の結論は次の通り。

In the last phase of his teaching, Lacan’s major preoccupation is with the field of jouissance. In developing a notion of the real dimension of the body, Lacan stresses the cut between the subject and its jouissance. At first, Lacan shows us that, in the end, the subject does not have very much to do with jouissance. The agency that is concerned with jouissance, on the other hand, is the body. This situating of jouissance sheds new light on the dynamics and the treatment of neurosis and psychosis. Taking up Freud’s indications on this matter, Lacan points out that the real of the body is the agency that lies at the base of the fixation of the drives, which is the precursor to repression. Thinking the real of the body through to its logical conclusion, Lacan arrives at the conclusion that it is this same agency that chooses the signifiers that a neurosis is built with. Since jouissance is considered to be the cornerstone of psychopathological processes, ultimately the concept of the real of the body ties together aetiology and treatment.

ごたごた言わないで簡潔にいえば、「享楽」とはまずなりよりも「身体」だよ。欲望はシニフィアン(大他者)。

で、身体と言葉(シニフィアン)とどっちがわれわれの核なんだい?こんなことはラカン派でなくてもすでに鮮明になっている。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。

(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。

これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。(中井久夫 「「踏み越え」について 」初出2003『徴候・記憶・外傷』所収ーー「意識とは躊躇」と「無意識とは検閲」

ラカンはこういった考え方を確信するのに少し先行してただけだよ。


《考え、計算し、判断するのは(自我や主体ではなく)享楽である Ce qui pense, calcule et juge, c'est la jouissance》 (AE.551、1975)

《主体そのものは享楽とはあまり関係がない Un sujet comme tel n'a pas grand chose à faire avec la jouissance》(S.20、16 Janvier 1973)

《主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない》(ラカン、E.666,1960)
存在は身体の享楽そのものである l'être c'est la jouissance du corps comme tel( S20、21 Novembre 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (S20、Février 1973)
現実界は話す身体の神秘、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20、15 mai 1973)
いにしえの Unerkannt (知りえないもの)としての無意識は、まさに我々の身体のなかで何が起こっているかの無知によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を作る何か、あるいは真っ直ぐな無限と言ってもよい(それは同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である.(S.23 le sinthome, 11 Mai 1976)


いやあ、もうなんか言ってくるな、今度いってくるときは、《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》の小笠原流の「シュレーバー的妄想」解釈しているラカン注釈者をほかにひとりでもいいから示せ! 

それ以外はもう返事はしない。