表題を、「意識とは躊躇」と「無意識とは検閲」としたが、躊躇と検閲はどう違うんだろう・・・
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かつまた最晩年のフロイト1937の、防衛(その一種の抑圧)とは検閲のこと、とする文は、「フロイトの抑圧概念という30年にわたる「寝言」」にある。
さらに中期フロイト1915の、《われわれにとって、より重要な差異は、意識的なものと前意識的なもののあいだにではなくて、前意識的なものと無意識的なもののあいだにもとめられるべき》も参照のこと(無意識は存在しない L'inconscient n’existe pas)。
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◆中井久夫 「「踏み越え」について 」初出2003ーーベンジャミン・リベット(『ユーザーイリュージョン』)をめぐる箇所(『徴候・記憶・外傷』所収)
※記述のデータは必ずしも最新のものではないが、敢えて変更していないとの註がある。
《現実界とは形式化の袋小路である 》( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)
※参照:「無意識は存在しない L'inconscient n’existe pas」)
まず「意識とは躊躇の別名」をめぐる。
一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』)
認知主義者にとっての謎は、自覚(気づきawareness)という単純な真実を解明することです。なぜ私たちの身体は盲目的な機械のように単純に機能できないのでしょうか。
すでに認知主義者自身によって確立されているのは、自覚(気づき)とは実際のところ還元作用である、ということです。私たちの脳や身体は無数の刺激やデータの一部を処理しており、知覚のインプットはきわめて豊富です。しかし、周知のごとく、私たちの意識は最高でも一秒間に七バイトしか機能しません。ですから意識というのは、大幅な簡素化であり、ヘーゲルの抽象と還元の力を称していたものを反映しています。意識は知覚によるインプットの99パーセントを無視するので、機能するためにはなぜかりにも自覚(気づき)が必要とされるのか、という問いが存続することになります。(『ジジェク自身によるジジェク』)
意識から捉えたとき、見えにくくなるものの一つが、随意運動にともなう運動感、すなわちキネステーゼである。身体を動かしているとき、おのずと動いている感じをもつ。これは内感の一つだが、運動にかかわる限り、キネステーゼが単層であるとは考えにくい。より強く動かすとき、あるいはより緩やかに動かすとき、すでにキネステーゼには調整能力が関与している。それが気づきである。歩行の途上で自分の手足の運動感を感じ取るとき、その動いている感じに気づいている働きがともなっている。この気づきの働きは調整能力であって、キネステーゼを知る働きではない。気づき(アウェアネス)は、自己反省能力ではなく、実践的にはキネステーゼに内在する調整機能である。体性感覚の一部である気づきは、触覚の場面と同様、働きとそれにともなう調整の二重化をつねに行っている。(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』)
◆中井久夫 「「踏み越え」について 」初出2003ーーベンジャミン・リベット(『ユーザーイリュージョン』)をめぐる箇所(『徴候・記憶・外傷』所収)
米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。
(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。
これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。
もっと前段階の、実行の構想段階、準備段階でも、行動の開始はその意識に先行するかどうかが問題である。リベットの研究はもっぱら最終的実行にかかわることだからである。
実験にもとづくリベットの説は、私たちが私たちのどうすることもできない力にふりまわされていることを示しているのではない。彼は、その主張の根拠を、脳/精神全体の情報処理能力(「自分」の機能)と、意識の情報処理能力(「私」の機能)との格段の差に帰している。感覚器からの入力を脳が補足して情報する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40ビットだと彼はいう。脳全体が判断して行動を起しつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は、「自分」が「私」に処理をまかせている時に起こる。瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。彼は神経生理学の立場から脳全体の機能を「自分、セルフ」といいい、意識の機能活動を「自我、アイ」という。ユングの用法に等しからずといえども遠からずであろうか。欧米のように意識を非常に重視する哲学的風土においてはショッキングであろうが、私にはむしろ、そう考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は小説のように、プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、モームの小説に出てくる、スピノザの哲学書をよみながら性交する男に似てfrigidであろう。意識が精神全体の、さらには心身の専制君主であるわけではないということである。
※記述のデータは必ずしも最新のものではないが、敢えて変更していないとの註がある。
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次に無意識とは検閲の別名をめぐって。
◆ジュパンチッチ2014,Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic(Lacan and Philosophy: The New Generation Lorenzo Chiesa, editor、2014, PDF)より
たとえば、Verneinung(否定)という精神分析の概念の基本的教え……。この「否定」という題をもつフロイトの短いエッセイは、最も興味深く複雑なもののひとつだ。それは、とりわけ、ひとつのシニフィアンを扱っている。「いいえ no」、あるいは「否定」である。そしてもし、フロイトがかつて言ったと報告されているように「時には、葉巻はただの葉巻だよ」であるなら、このエッセイの要点は、「いいえ」は決してただの「いいえ」ではない、ということだ。そして、その語の使用が「道具的」であればあるほど(すなわち、純シニフィアンとして機能すればするほど)、何かほかのものがそこに貼りつくようになりうる。
フロイトの最も有名な例はもちろんこれだ、「夢のなかのこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません [Die Mutter ist es nicht ]」。フロイトはつけ加える、どの場合でも、質問が解決されれば、それが実に母であることが確認できる、と。だが、フロイトの議論をさらに追っていくと、一段ごとに明らかになってくることは、この否定によって導入後されたものは、「それは私の母です/それは私の母ではありません」の二項択一以外の何かほかのものだということだ。
こういわけで、一歩一歩進もう。彼の夢のなかでのある人物が誰を演じているかを尋ねられることはないままで、患者は、母という言葉に向かって突き進み、自発的にその言葉を口に出す。否定を伴いながら、である。あたかもその語を言わなければならなかったかのようであり、しかし、それと同時に、言うことができないかのようだ。否応なしであると同時に不可能なのだ。結果は、言葉は否定されたものとして口に出る。抑圧は、意識的に話されたものとともに共存する。
ここで最初に避けねばならない間違いは、この人物は彼の夢のなかで実際に何を見たかという観点、そして、意識的な検閲 censorship のせいで、分析家に嘘を吐いたという観点からこれを読むことだ。というのはーーこれは否定 Verneinung を理解するために決定的だけでなく、フロイトの無意識自体を理解するためにも決定的であるーー、この事例における無意識というのは、まずなりよりも「検閲」のことであり、たんに「母」というその対象ではないから。
ここでは、無意識は歪曲自体(否定)にしがみついている。そして、主体がおそらくほんとうに夢のなかで見たもののなかには隠されていない。別の人物、知っていたりか知らなかったりする人物が実際に夢のなかに現れたということは充分にありうる。しかし、精神分析にとって関心がある無意識の物語とは、夢の報告において起こった、この「私の母ではない」に始まる。
しかし、事態はいっそう興味深くなる。というのは、フロイトが続けてこう言うからだ、分析において、我々がこの人物から「いいえ not」を引っ込め、抑圧されたもの(その内容)を承認させてさえ、「抑圧的な過程自体は、これによっては、未だ取り除かれていない」。抑圧、症状は居残るのだ、被分析者が抑圧されたものに意識的になって後にも。これは次のようにもまた定式化できる。すなわち、我々は(抑圧された)内容を受け容れ、それを消去する。しかし、抑圧を生み出した裂け目、亀裂の構造を消去しえない、と。我々はまたこうも主張できる、患者が言いたかったことは、まさに彼が言ったことだ、と。すなわち、それは、母以外の他の人物でもなければ母でもない。そうではなく、「非-母 not-mother」、あるいは「母に非ず mother-not」だ、と。
◆ラカン、セミネール1巻「フロイトの『技法論』 保科正章試訳、2007)
ラカン) Verneinung は、 セミネールの前に、イポリットさんが私に耳打ちしたように、dénégation(前言を翻す行為)であって、翻訳のように négation(否定)ではありません。(…)
イポリット Hyppolite) フロイトは Die Verneinung という表題で始めます。私は、ドクター・ラカンのあと発見したのですが、この表題は dénégation と翻訳されるべきだと思います。
同様に、テキストのもっと先に、etwas im Urteil verneinen と verneinen が使用されていますが、これは判断におけるなにかの否定 la négation de quelque chose dans le jugementd ではなく、一種の「前言の翻し」déjugement なのです。(…)
イポリット Hyppolite) テキストの全体を通じて、判断に内在する否定と「否定態度」attitude de la négation(Verneinung)を区別せねばならないと私は思います。さもなければまったく理解できません。(…)
患者、被分析者が分析家にこう言います。 「あなたは私がなにか失礼なことを言いたいのだと思っているでしょう。でもそれは私の意図ではありません」 。フロイトは「われわれはこれを浮かんだ観念の投射による拒絶であると理解する」と書いています。
<日常生活において私が気づいたことがある。しばしば起きることであるが、われわれが「これから言うことであなたを怒らせたくはないのです」と聞くとき、これは「私はあなたを怒らせたい」と翻訳すべきである。こういう意志は必ずある。>
(…)
同様に、フロイトは、 「私は夢である人を見ました。誰か?とあなたは言うでしょう。それは私の母ではありません」という男の例をあげます。この場合、それはきまって母親なのです。
彼はさらに分析家にとって便利なある計略をあげます。しかしこの計略は誰にとっても便利なもので、ある状況で抑圧されたものをはっきりさせるのです。 「あなたにとってこの状況で一番ありそうもないことを話してください。あなたにとってまったくかけ離れたことです」 。そして患者が、 (哲学者である)私にとっては、偶然の相談者、客間あるいは食卓の人が、この罠にかかって、彼にとって最も信じられない incroyable ことを話すとすると、それが信じる croire べきものです。
具体的かつ一般化できる方法です。この方法はその根拠を、 「人がなにか」ce qu'on est を、そうではないもので提示する様態のうちに un mode de présenter ce qu'on est sur le mode de ne l'être pas 見いだします。 つまりそうでないものが 「人がなにか」 なのです。 「私は私がそうでないものを話します。気をつけて、それこそ私なのです」 。このようにフロイトは dénégation の機能へと導入します。 そのため彼は私にとってお馴染みであるとしか感じられないある語を使用します。Aufhebung です。この語はご存知のように多様な運命 fortunes をもってきました。(…)
これはヘーゲルの弁証法的語です。同時に nier,supprimer,et conserver、根底的には soulever を意味します。 現実においては石を Aufhebung (持ち上げる) のであり、また雑誌購読予約の停止でもあります。 フロイトはここでこう言います。 「dénégation は抑圧の解除 Aufhebung で あ る 、 だがだからといって抑圧されたものの承認 acceptation(Annahme)ではない」 。
ここで、フロイトの分析における法外ななにか extraordinaire が始まります。これによって、われわれがそれほどのものではないと思ったかもしれない逸話から、驚異的な哲学的射程が切り出されるのです。後ほどまとめを試みましょう。(…)
イポリット Hyppolite) すでに見たように、フロイトは知性を情動とは分離されたものとして措定します。 「ただし分析が望む修正 modification、抑圧されたものの承認<l'acceptation du refoulé>があるとしても、抑圧はそれでもなくなるわけではない」 。この状況を思い描いてみましょう。
( 「Verneinung に打ち勝ち、抑圧されたものの知的承認に成功しながら-抑圧過程そのものはこれによって aufhebung されない」 。 )
第一段階 Première étape.これが私ではないものです。ここから私であるものが結論される。抑圧はここでも dénégation のかたちで存続する。
第二段階 Deuxième étape.分析家は私にさきほど私が否定したものを知的に受け入れることを強いる。そしてフロイトは付け加えます。ハイフンのあと aperès un tiret、別様に説明することはなく。 (否定行為にも打ち勝ち、 抑圧されたものの知的承認に成功しながら)―抑圧過程そのものはこれによって解除されない。
これは私にはきわめて深いものと思われます。被分析者は受け入れ、dénégation を取り消しても、抑圧はまだある!
私の結論は、ここで生み出されるものに、ある哲学的名称を与えなければならないことです。この名をフロイトは述べてはいません。それは「否定の否定 la négation de la négation」です。文字通り、ここで現れるもの、それは知的肯定です。しかし知的であるだけです。否定の否定ですから。こうした用語はフロイトにはありません。しかしこう述べても私はフロイトの思考の延長線にあると思います。これが彼が言いたいことです。
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最近のラカン派の一部では、「現実界的無意識」という言葉が流通している。
それは、仏女流ラカン派の第一人者といわれるコレット・ソレールが『Lacan, l'inconscient réinventé』2009にて「現実界的無意識 inconscient réel」を強調するようになってからのことだ。
もっとも似たような指摘はそれ以前からある(参照:症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ))。
現実界的無意識は、いわば象徴界的無意識にたいするものだ。それは「象徴界的前意識・意識」の表象の裂け目に現れるという意味で、意識の非全体の領域にある(外立ex-sitence する)ということがいえる(ここでジュパンチッチの文に、「非-母 not-mother」という言葉が出てきたのを思い出しておこう)。
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。
存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
さて、ここで唐突にーーつまりやや飛躍してーーこういってみよう、真の無意識(現実界的無意識)とは(意識の)行き詰り・躊躇にある、といいうるだろうか・・・
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『テレヴィジョン』1973のテキストにあたれば、あなたがたは「無意識」という言葉について私がラカンに質問しているのを見ることができます。私はシンプルに告げている、《無意識ーーなんと奇妙な言葉でしょう! L'inconscient - drôle de mot ! 》。
というのは、人はいざ知らず私には、この用語は実際のところ、ラカンがその教えで到った核心とはあまり合致しないように見えたからです。彼は応答した…きっぱりとした口調で取り下げた、《フロイトはそれ以上のものを見いださなかった。そしてそれについてとやかく言うことはない。Freud n'en a pas trouvé de meilleur, et il n'y a pas à y revenir》。
ラカンは認めはした、「無意識」は不十分だと。けれどもそれを変えるどんな試みも拒絶した。しかしながら二年のち翻意した。『Joyce le Symptôme』1975のテキストに当たれば見ることができます。そこには新造語が提出されている。…ラカンはフロイトの「無意識」という言葉を「言存在 parlêtre」に変えました。(L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER ,Version du 25 septembre 2014)
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いずれにせよ、われわれが通常「無意識」と思っているものは、前意識(あるいは力動的無意識)にすぎない。
意識とは、ーー前意識を構成するもの・世界をわれわれの思考によって緊密に織り上げられたものにするものに比較してーー、主体の中心であるものが外部から自らの思考、自らのディスクールを受け取る表面である。意識はむしろ無意識が前意識から来るものを拒否する l'inconscient…bien plutôt refuse ce qui lui vient du préconscient ため、もしくは無意識が意識において十分の必要なものを詳細に選択するためにある…(ラカン、セミネールⅨ「同一化」向井雅明試訳からだが一部変更)
フロイトの文脈における無意識の核心は、 抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw=非抑圧無意識である(参照)。
フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。
システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー「無意識は存在しない L'inconscient n’existe pas」)
かつまた潜在無意識とは基本的に前意識にすぎず、システム無意識とは(ほとんど)関係がない。
私は昔、読者に夢の顕在内容と潜在内容との区別を納得してもらうのに大骨を折った覚えがある。記憶に残った未判断の夢(顕在内容)を基にした議論と抗議とはその跡を絶たず、夢判断の必要を唱えてもひとは耳をかそうとしなかった。
ところがすくなくとも精神分析学徒だけは顕在夢を分析して、その本当の意味をその背後に見つけることに慣れてはきたのだが、そうなると彼らのうちの若干の者は今度は別の混同を犯して、前と同じようにそれを頑固に執着しているのである。つまり彼らは夢の本質をもっぱらこの潜在的内容に求めて、そのさい、潜在夢思想と夢作業とのあいだに存する相違を見のがしてしまうのである。
夢というのは結局、睡眠状態の諸条件によって可能になるところの、われわれの思考の一特殊形式以外のものではない。この形式を作り出すのがほかならぬ夢作業である。そして、夢作業のみが夢における本質的なものであり、夢という特殊なものを解き明かしてくれるものなのである。
[Der Traum ist im Grunde nichts anderes als eine besondere Form unseres Denkens, die durch die Bedingungen des Schlafzustandes ermöglicht wird. Die Traumarbeit ist es, die diese Form herstellt, und sie allein ist das Wesentliche am Traum, die Erklärung seiner Besonderheit.]
私はこのことを、夢のかの悪評高き「予見的傾向」の評価のためにいっておく。
夢が、われわれの心的生活に与えられている諸課題の解決の試みに従事するということは、われわれの意識的な覚醒時生活がそれに従事することに比して決してひどく珍しいことえはないのであって、ただそこに、すでにわれわれに知られているように、夢の仕事は前意識のうちにおいても行われうるということを付け加えるにすぎないのである。(フロイト『夢判断』第六章「夢の思考」(VI DIE TRAUMARBEIT) 高橋義孝訳ーー1925年版註)
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※付記:
※付記:
私には、私の現前する意識には収まりきれないものが非常に多くある。私の幼児体験を初めとして、私の中にあるのかないのか、何かの機会がなければためすことさえない記憶がある。私の意識する対象世界の辺縁には、さまざまの徴候が明滅していて、それは私の知らないそれぞれの世界を開くかのようである。これらは、私の現前世界とある関係にある。それらを「無意識」と呼ぶのはやさしいが、さまざまな無意識がある。フロイト的無意識があり、ユング的無意識もおそらくあるだろう。ふだんは意識されずに動いていて意識により大きな自由性をあたえている、ベルグソンの身体的無意識もある。あるいは、熟練したスポーツなどに没頭する時の特別な意識状態があるだろう。無意識というものを否定する人があるとしても、意識が開放系であり、また緻密ではなく、海綿のように有孔性であることは認めるだろう。そもそも記憶の想起という現象が謎めかしいものである。どういう形で、記憶が私の「無意識」の中に持続しているのかは、いうことができない。もし、私の中にあるものが同時に全部私の意識の中に出現し、私の現前に現れたならば、私は破滅するであろう。それは、四次元の箱を展開して三次元に無理に押し込むようなものだろう。
意識において制限者という機能を重視するようになったのは、最近の生理学であるそうだが、精神医学において、はやくサリヴァンは、意識の幅を狭めて、相反するもの、あまりに多義的なものが始末におえないほど氾濫しないようにするシステムとして「自己システム」というものを想定した。彼の「自己システム」は制限者であり、この点で他の「自己」論と異なっている。
彼によれば、統合失調症以外の病いは、「自己システム」の誤作動によるのであるが、統合失調症だけは「自己システム」の解離力の衰弱によるものである。したがって「せめてアンビヴァレンツであってくれたら」というような多義的な観念が氾濫し、意識はこれに圧倒される。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)