2017年3月8日水曜日

それ自身に対して差異的であるところの差異体系(柄谷行人、ラカン)

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・貨幣」『内省と遡行』所収、1985年)  

ーー柄谷行人の『内省と遡行』は、わたくしの手許にない。たまたまネット上から上の文を拾ったのでここにメモ。

この柄谷行人の言明はラカンのシニフィアンの論理とほぼ等価である。

たとえば柄谷曰くの《それ自身に対して差異的であるところの差異体系》とは、次の文と相同的である。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》とは、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイクスルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、ーーゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

…………

 初期ジジェクによるシニフィアンの論理注釈のさわりを付記しておく(続きは、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ)。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳)

《シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple 》(ラカン、S3、14 Mars 1956)

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主体の空虚、価値の空虚とは、フレーゲの次の文とともに理解することもできるが、冒頭の柄谷やジュパンチッチの文にみられる表象行為自体が非全体を生みだすという観点は、このフレーゲ文からだけでは導きにくいだろう。

あるものが賢くないという可能性を通してのみ、「ソロンは賢い」という主張は意味を獲得する。概念の外延が増大すれば、その内包は減少する。もし外延が全てを包括するものであれば、内包は完全になくなるに違いない。(フレーゲ『算術の基礎』)

柄谷の「洞察」はーーおそらく基本的にはーー、マルクスを読むことから来ている筈。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S16、13 Novembre 1968ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス