こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め
ーー谷川俊太郎「飯島耕一に」『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』
何もかもつまらなくなったとき
なにかに触りたくなるのはたしかさ
でも白木の箱じゃものたりない
粘土をこねるのも試してみた
だがそのうちその柔軟性
可塑性の高さに苛立ってくる
患者の自傷他害についてはどう考えるのかということですが、患者さんがそういう行為に出るという場合はいくるかありますね。全然医療いかかっていない時期、つまり発病の間際に行うことが意外に多いんですが、これはおそらく自己感覚が薄れてくるからだと思います。離人症という名前がついていますし、もっと広い意味でもいいんですが、そういうとき、自己感覚を強めるためにスリルを求める。いっときは自己感覚が取り戻せます。
例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が一まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。皆さんも壁でも叩いてみるとおわかりだと思います。(……)
こういう場合にどうするかということですけどね、私が使った手段は、なんと粘土の塊を渡すことでありました。まだ駆け出しの精神科医の頃にやったんですね。何かを握っているのは実在感があるんですよ。壁を叩くよりも、粘土をこねまわしているほうが実在感がよみがえってきます。赤ちゃんが最初に子宮の中で自分を認識するのは指しゃぶりであり、自分の身体を触ることなんですよね。そのような対象に粘土を使う。何も細工しなくていんです、粘土をこねていれば。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」『徴候・記憶・外傷』所収)
触っていたいんだ
土器や大理石などのもっとかたいものを
(縄文ヴィーナス) |
すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。セザンヌは正しかった。(ジャコメッティーーメルセデス・マッター『試論』)
《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)
彫刻がばかでかくなったのは
ばかげている
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない
「古代の彫刻…これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」
「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」 (アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)
でっかい彫刻なんてのは
完全にレトリックの分野に出て
調子のいいことをしゃべっているだけさ
クメールの市場で手に入れた
銀製のコップってのはオレの救いさ
毎朝うがいするときに使ってるのだけど
その重みと手触り
ああ生きていこうって思うよ
もうすこし丸みがあったら
きっとこれで満足するのにな