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2018年8月27日月曜日

女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」

以下、フロイトの母との同一化をめぐる考え方を記すが、あくまで一世紀近く前の考え方であり、これが現在あてはまるという保証はまったくない。

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーここでフロイトが記している同一化は母との象徴的同一化であって、想像的同一化ではない。

ジャック=アラン・ミレールの想像的同一化/象徴的同一化の区別に基づいて、シンプルに言えば次のようになる。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)

次に、男性の同性愛者の母との同一化と女性一般の母との同一化の機制を掲げるが、両方とも母との「象徴的」同一化である、とわたくしは読む。


【男性の同性愛者における母との同一化】 
母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデル Vorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代替 Ersatzpersonen であり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象 Liebesobjekte をナルシシズムの道 Wege des Narzißmus の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス Narzissus と呼んでいる。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

※より詳しくは、「母への愛に忠実な同性愛者」を見よ。


【女性における母との同一化】
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

もっとも(稀な例外を除き)全ての乳幼児は母との想像的同一化が先行してある。次の文はラカンが倒錯について記している機制だが、原初の母子関係はほとんど常に倒錯である。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)

ラカンの定義上、原初の母子関係においての幼児はすべてマゾヒストなのである。

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier l963)

ーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(ラカン、S23, 1977)

さて元に戻れば、以下の文にあらわれる①が想像的同一化であり、②が象徴的同一化とほぼ見なすことができる。

女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデル Vorbild とすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ、母を父に代替しようとすること Mutter beseitigen und beim Vater ersetzen will。

どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における母との結びつき Bindung が女性の未来にとって決定的である。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

繰り返せば、母との象徴的同一化とは、母のポジションに自らを置くことである。

男性の同性愛者は、母の場に自らを置き、母が彼を愛したように,《彼自身をモデルVorbildにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶ》。フロイトが記しているようにこれはナルシシズムの変種である。

女性一般の場合は、母の場に自らを置き、《母を演じる spielte die Mutter》。人形遊びの《人形は彼女自身である Puppe war sie selbst》。すなわちこれも男性の同性愛者と同じようにナルシシズムである。

上に引用したフロイトがもう一つ言っていることは、母の場に自らを置くことによって、《母を父に代替しようとする》。これは父が母を愛しているように、自らも父から愛されるという形式である。後年、この父は男性に変るだろう。

フロイトは男性の同性愛者については、いま記した後者の場合を指摘していないが、論理的には、母との象徴的同一化によって父から愛されるという機制が働いても奇妙ではない。

以上、仮にこの観点をとれば、女性一般と男性の同性愛者は同じ形の同一化形式をもっているのである。

フロイトにおいてもラカンにおいてもその基本的な問いは、本能の壊れた動物である人間にとって、最初の愛の対象は、母であるに相違ないのに、なぜ女性たちは男を愛するようになるか、ということである。

(母子の)二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年ーー男女間の去勢の図
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

ようするにフロイト・ラカンの考え方においては、女性一般と男性の同性愛者は、母‐女ではなく男を愛するという「ヘンタイ」なのである(そして女性の同性愛者は正常である)。もっともヘンタイというより、ナルシシストといったほうがいいかもしれない。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

男性の通常の発達(神経症的発達)においては「父との同一化 Vateridentifizierung」が起るというフロイトの考え方はよく知られているだろうから、ここでは割愛した。精神病者と倒錯者においてはこれは起こらず、基本的には母との「想像的」同一化が続く。倒錯の機制については、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にいくらか詳しく記してある。

⋯⋯⋯⋯

なお、ジジェク(2012)が《女の欲望は、男に欲望される対象になること》、女は《はるかにパートナーに依存することが少ない》等としているのは、上のメカニズムにほぼ則った記述である。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ジジェクは後半で女性の享楽と孤独とを結びつけているが、この「孤独」自体、ナルシシズムに近似した意味をもっている。この女性の享楽は現在のラカン派では自閉症的享楽jouissance autiste(=自ら享楽する身体)とも呼ばれており(参照)、上に記した内容とはややことなる後期ラカンにおける思考のなかにあるが、ベースはやはりフロイトにある。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ジャック=アラン・ミレール, L'être et l'un、2011)
愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。(フロイト『欲動とその運命』1915)