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2018年10月19日金曜日

対象aの三義性

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

⋯⋯⋯⋯

前回示したように、対象aーーフロイトの 「モノdas Ding」・ 「喪われた対象 verlorenen Objekt」[参照」ーーには二義性があると言われる。

セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する空虚としての対象a、そしてこの空虚を埋め合わせる魅惑要素としての対象aがある。…人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」、アガルマが覆っている空虚を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)


だがより厳密に言えば、対象aには三義性がある。 すくなくともわたくしにはそう思われる。

ここでまず対象aの三義性をいくらか整理してまとめた図を示そう。



一般にはS(Ⱥ)とȺを混淆させて、現実界としての対象aと扱われている。そしてその上に見せかけとしての対象aがあると(S(Ⱥ)とȺのあいだには遡及的 rétroactivement な関係性があるので、それ自体としては大きな問題はない)。

ところでジャック=アラン・ミレールは、2011年に次のように言っている。

・すべての話す存在の原去勢は、対象aによって-φと徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a

・-φの上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

ようするに「原去勢-φ」は穴Ⱥであり、別にその穴埋めとしての対象aがあると言っている。

ラカンは後年、この穴Ⱥを対象aと言っている。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

この穴は原対象aと捉えうる。

とはいえ最初の穴埋めとは、S(Ⱥ)でもあるのだ。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

したがってȺとS(Ⱥ)は等価ではけっしてない。S(Ⱥ)/Ⱥである。

穴埋め(あるいはコルク栓 bouchon)という用語は、ラカンにおいては次のように現われる。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるrappelle が、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を生みだす。それは唯一、コルク栓 bouchonとして、そこに現れる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられている。現実界についてわれわれが知っている僅かなことは、すべて「真の見せかけ vraisemblance 」へのアンチノミーを示す。(Lacan、AE573、1976)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléancẹ̣ (穴埋め)を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )

S(Ⱥ)とは穴Ⱥの最初の穴埋めであり、フロイトの「境界表象 Grenzvorstellung」概念と(ほぼ)等価であるだろうことは「原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである」参照で示した 。

ここでやや飛躍して(詳細は後述)、ラカンのボロメオ結びの図を使って、対象aの三つの相を示せばおそらくこうなる。





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【穴Ⱥとしての原対象a[ objets a primordiaux] 】

(ある時期までの)ラカンは、対象a が想像的なものか現実界的なのかを書きえていない il ne peut pas encore écrire si cet objet petit a est imaginaire ou réel (ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

セミネール13にて初めて次の表現が現われる。

対象aは、現実界の審級にある。(a) est de l'ordre du réel. (ラカン, S13, 05 Janvier 1966)

とはいえこの段階の現実界としての対象aは、フロイトの表象代理(欲動代理)である。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)

S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」にて示したように、表象代理とは S(Ⱥ)であり、Ⱥではない。

上で引用したように、ラカンがȺとしての対象aを示したのは、セミネール18である。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 196

ミレール2011にあったように、この穴は-φ(原去勢)でもある、《すべての話す存在の原去勢は、対象aによって-φと徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a 》

フロイトにおいて原去勢に相当する表現は「母の去勢」という表現で現れる。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

母子融合の状態にあった母胎内から、出産によって喪われるのは、母にとっての子供だけではなく、子供にとっての母でもある。

ラカンにおける出産外傷をめぐる言明は、名高い「ラメラ」の箇所に先ず現れる。

ラメラ lamelle、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、ひとつの器官organeだが... 、ラメラはリビドー libido である。

リビドー、純粋な生の本能としてのリビドー pur instinct de vie。これは、不死の生 vie immortelle・押さえ込むことのできない生 vie irrépressible・いかなる器官も必要としない生・単純化され壊すことのできない生 vie simplifiée et indestructible、そのような生の本能である。 それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物から引き抜かれてしまう soustrait ものである。対象a [l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態 formesは、これの代理である。諸対象a [les objets a] はこのラメラの代表象représentants、これの形象化 figures に過ぎない。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象représenteしている。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

後年にも次のような形で現れる。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この出産外傷で喪われた対象が、原対象aである。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)


穴について、ラカンは次のようにも言っている。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

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以下、冒頭近くに掲げた図の用語の注釈文。





【ファルス(繋辞)・対象a・S(Ⱥ)・Σ】
ファルスは繋辞である le phallus c'est une copule。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた 「享楽する意味 sens-joui」である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界の審級なかに享楽を孤立化する isoler la jouissance comme de l'ordre du réel こと、すなわち、意味において外立的 ex-sistant au sens であることである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)

ここでミレールによるいくらか微妙な表現をもつ文も掲げておこう。微妙というのは、見せかけとしての対象aではなくS(Ⱥ)としての対象aを語っているようにも捉えうるから。

なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps の表現 expression・変形 transformationであり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである、--ラカンは、aを、フロイトのもの das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである。(Introduction à la lecture du Séminaire L’angoisse de Jacques Lacan, Jacques-Alain Miller、2004)


【見せかけsemblant・フェティッシュ fétiche・去勢− φ】 
セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)


【見せかけ・囮・まがいの対象a・フェティッシュ】
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》(Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre l962)


【純粋対象としての黒いフェティッシュ】

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年) 

ーー《純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. 》(S10, 16 janvier l963)



【純化された症状(サントーム)=文字対象a】

《骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]》( Lacan, S23、11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」(=原抑圧)あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》という無意識とは異なり、その外に出る(外立する)もの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を示す。《私は症状を、皆が無意識を享楽する仕方として定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。

ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。「性関係はない」という彼のテーゼに則るために。(⋯⋯)

R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)


【サントーム=固着(原抑圧)】
原抑圧とは何よりもまず「原固着」として現れる。原固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置かれたままになるという意味である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

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※付記

現在、一部のラカン派で「自閉症的享楽 jouissance autiste」を示す表現として流通しているミレール起源の「S2なきS1(S1 sans S2)」(参照)とは、S (Ⱥ)である。したがって自閉症的享楽とは、実質上、穴Ⱥの享楽、去勢の享楽、享楽欠如の享楽 jouir du manque à jouirである。これは、直近のラカン派において「トラウマの享楽 jouissance du trauma 」と表現されるものと等価であるだろう(L'objet (a), semblant et «osbjet».2018 by Samuel Basz )。

「人はみな妄想する」(ラカン)の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)

フロイト・ラカン派におけるトラウマの意味合いは、「構造的トラウマと事故的トラウマ」を参照のこと。


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わたくしが自閉症的享楽は「去勢の享楽」ではないかと記したのは、次の三文に依拠する。

丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps propre
ーー原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962 )
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963) 
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

自閉症的享楽は直接的には、S (Ⱥ)の享楽(サントームΣの享楽)ではあるが、S (Ⱥ)という「母なる大他者」による「身体の上への刻印」には、かならず残存現象 Resterscheinungen(リビドーの固着の残存物Reste der Libidofixierungen)がある。この残滓が原去勢̣ (− φ) であり穴Ⱥ(トラウマ)である。そして冒頭に記したようにミレール独自のマテーム(- J)である。このマテームはとすることもできるだろう。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)